●けいそうビブリオフィルの連載は、次回からとうとう、『君の名は。』と『輪るピングドラム』を扱う最終章に入る予定(2回分か3回分くらいかけて書くつもり)。そのために、改めてさらに、相対性理論の勉強をする必要がある(超泥縄式です)。それで、『一般相対性理論を一歩一歩数式で理解する』(石井俊全)というかなり分厚い本を買ったのだけど、一番最初に出てくる「ベクトル積」のところで既にもうぼくにはかなり難易度が高い……。
(この連載では宮崎駿が完全に欠落していることが、ちょっと気になっている。本にする段階で、宮崎駿の章を書き足すべきなのか、その必要はないのか、まだ迷いがある。)
●『ベルクソン物質と記憶』を解剖する』という本に収録されているエリー・デューリングの「共存と時間の流れ」というテキストは、哲学からの相対性理論に対する批判と言える。勿論、「相対性理論は間違っている」というようなトンデモ物理学が展開されているわけではない。ここでエリー・デューリングが言っているのは、「物理学は時間を上手く捉えられていない」ということだ(そして、時間を正しく捉えるために、カント、ホワイトヘッドベルクソンが召喚される)。これについて吟味するためにも、もう少し相対性理論のことを知らないといけない。以下はこのテキストからの引用。
《それは、ポール・ランジュバンが1911年にフランス哲学会で講演した際に、哲学者たちに向けて行った次のような申し出と多かれ少なかれ同じ内容である。すなわち、あなたがたが時間とみなしているものは、(連続的な流れなどの)それに付随する現象学的な特徴も含めて、実は固有時なのだ、というものである。これはもちろん、物理学のコミュニティから哲学者たちへの友好的で調停的な振る舞いを意図していた。しかし、ベルクソンアインシュタインも気づいたように、この振る舞いはそのような調停的なものとして機能することがまったくできなかった。というのも、「固有時」は、時空における時間的な経路(世界線)の表象と結びついた、本質的に幾何学的な概念だからである。根本的には、いかなる直接的な時間的含意をもたない四次元的な概念なのである。》
《望むときに記号「t」を使い、これは測定できるとみなしていても、実のところは、媒介変数は空間において曲線を記述するときにしているのと同じことしかしていないのだ。時空における時間的な間隔を扱うから持続を測定していると想定してしまうと、問題を避けていることにしかならないのである。これは空間化された時間ですらない。それは空間である。》
《ここには何が欠けているのだろうか。答えは極めて単純で、時間に関するパースペクティブである。局所的な時間を遠隔的に「走査(scanning)」できる可能性。(…)必要なのは、意識をもつ観察者の内的な持続が、ある[外界の]過程に向けて自らを投射することで、その過程を空間の中だけでなく時間の中でも展開するとみなせるようになる、そういった類の何らかの展望台なのである。》
《(…)局所的な(単純増加する)媒介変数としてあるとき、「固有時」は同時性の本来的な概念を備えていない、ということが主な難点なのである。実在的な延長的生成という考えに付随する深さや厚みをすっかり欠いているので、固有時には直接的な時間的意味がない、と私は主張する。固有時が時間的な意味を獲得するのだとしたら、それは私たちが後退して、持続を算定できる基準線として動く二番目の固有時を少なくとも導入するときだけである。そういうわけで、双子がそれぞれの持続を相互的に観察する方法を考察するや否や、双子の共存はまさしく時間的な事柄になる。》