2020-06-19

●下の引用は、立花史さんのツイッターから。エリー・デューリングの翻訳本はいつ出るのだろうか。首を長くして待っている。

《エリー・デューリングによる論文集の翻訳に携わっているが、担当部分がだいぶ仕上がりつつある。この論文集は、どちらかというと美学論集で、しかもけっこう具体的な作品を論じたものが多いので、日本語読者にとって手に取りやすいものにはなりそう。》

https://twitter.com/FUHITOT/status/1273425159395766272

●下の引用は、「ドゥルーズ『シネマ』におけるイメージ概念の実践的価値」(福尾匠)から、エリー・デューリングについて書かれた部分。

https://ynu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=10549&item_no=1&page_id=59&block_id=74

《デューリングの映像論の特徴的な点は、通常「時間芸術」という側面が強調される映画を取り上げるにあたって、彼が「映画は本質的にトポロジカルなものであり二次的に時間的であるにすぎない」という観点を基底に据えていることだ。こうした発想を生むきっかけとして、デューリングは美術の文脈におけるマルチスクリーンの使用の増加を挙げる。これは映画におけるショットの持続とその継起の時間性を括弧に入れて、隣接するショットの共存の様態を空間的に規定することを促す契機として考えられる。このような「空間化された」イメージの共存という問題から発して、彼はマルチスクリーンや分割スクリーンの映像を取り上げるとともに、そのような技術を用いていないいわゆる「普通」の、ショットが継起するだけの映画もそうした視座のもとで考察する。

イメージの共存について、デューリングは次のように書いている。

映画的で芸術的な取り組みという視点からイメージの共存の問題に焦点を定めるなら、このテーゼ[=時間に対するトポロジカルなものの優位]を真剣に受け取らないのは困難である。共存の問いは、つまるところ、根本的には接続の問題として提示されるのであり、接続は一方で時間と空間の局所的な所与にかかわり、他方では大域的な要求に沿った表象にかかわる[……中略……]。というのも、接続あるいは局所的/大域的は典型的にトポロジカルなカテゴリーだからだ。

彼はここでイメージの「接続connexion」、あるいは諸々の「局所的なlocal」イメージの「大域的なglobal」綜合といったイメージの共存の様態を「トポロジカルなカテゴリー」と呼んでいるが、彼の映像についての論文が収録された『つなぎ間違い』では、ヒッチコックの『めまい』、ウォシャウスキー姉妹の『マトリックス』、アメリカのテレビドラマ『24』、そしてダン・グレアムなどの現代美術家の映像作品がこうした観点から分析されている。

デューリングは「共存と時間の流れ」という論文のなかでベルクソンに依拠しながら「持続」と「時間」を対照させ、後者を諸持続の共存の「形式」と規定している。この形式は異質な諸持続の共存の様態であり、『つなぎ間違い』における「トポロジカルなカテゴリー」と概念上同一であるように思われる。つまり局所的な諸持続とその大域的な綜合=時間の関係性がデューリングの一貫した問題関心であることがうかがえる。イメージの空間化、あるいはイメージの共存の形式としてのトポロジカルなカテゴリーという相のもとで映像を考えるのは、そこから時間的なものを捨象するためではなく、むしろこれらはつねに持続の構成、そして異質な諸持続の関係性を描き出すために要請されるということだ。》

《(…)デューリングはあくまで、なぜベルクソンにとって映画装置が特権的なものであったかという問いに焦点を当てている。デューリングは、ベルクソンにおいて映画装置がたんなる思考の道具としての技術的対象ではなく、ある種の「概念的対象」であったと述べる。なぜならベルクソンが『創造的進化』で描写するような映画装置は当時実際に流通していたものとはある点において明らかに異なっており、したがって、「今日われわれが知っているような映画装置を発明したのはベルクソンだとさえ言える」からだ。

デューリングによれば、ベルクソンの描写する映画装置はあたかもモーターで駆動する自動化されたものであるかのようであるが、当時は撮影も映写も手動でクランクを回して行っていたのであり、この改変あるいは「発明」によってベルクソンは、抽象的な持続の画一性uniformiteというアイデアを概念的対象としての映画装置に組み込むことができた。「そのなかでなにが起こっているかに頓着しない時間の等質性として速度の恒常性あるいは不変性を指し示す」画一性というアイデアは、ベルクソン的な映画装置なしには表現されなかったものだ。

というのも、映画装置におけるこの運動の抽象的な画一性は、把握される具体的な持続の多数性を含意してもいるからだ。デューリングは次のように述べている。

映画装置の[認識のメカニズムとの]アナロジーにおいて重要なのは、ぎくしゃくした動きでなく画一的な進行であり、コマの断片性や不連続性ではなく、あらゆる具体的な運動の普遍的な等価物として提示される機械的な運動における作りもののfactice連続性だ。したがってこれによって意味されるのは、一般的な次元としての時間temps-dimensionでも、[カントの]〈超越論的感性論〉における線としての時間temps-ligneでもなく、同時性という観念と不可分な経験の第三のアナロジーであるフレームとしての時間temps-cadreである。》

《諸々の具体的な持続を一元化して抽象的な尺度を与える「フレームとしての時間」という概念によって、『つなぎ間違い』における局所的/大域的というトポロジカルなカテゴリーによる思考が要請され。「フレーム」がつねに限界をもっているように、大域的な表象内部の同時性はあくまで相対的なもの、そのフレームに依存するものであり、つねに分離の可能性にさらされている。しかしこのことはまた、大域的な表象のなかの同時性の相対性だけでなく、大域的な表象の構成の原理、つまり時間の尺度それ自体の相対性をも含意してしまうだろう。つまり「原理的に、「宇宙的な映画装置」などというものは存在しないと言わなければならない」のであり、この論文の表題にある「映画装置の死」が意味するのはこのことだ。デューリングが「映画」へと飛び移るのはこの地点においてであり、しかしそれはベルクソン-ドゥルーズ的な「イメージ」へと向かうのではない。デューリングは大域的な表象あるいは同時性の印象が相対的なものであることを認めたうえで、それを作りもの---ドゥルーズが切り捨てた映画装置の人為性artificialiteも「作りもの」という意味だ---として打ち遣るのではなく、まさに大域的な構成の原理、つまり異質な諸持続の共存の形式それ自体の複数性の探求の場として装置から映画へと切り返す。》

《デューリングは、ドゥルーズの提出する概念(結晶イメージ)が、つまるところあらゆるイメージに適応可能であることを批判する。彼が言うように確かにドゥルーズ自身が「直接的な時間イメージは、つねに映画[運動イメージ的なものにさえも]に取り憑いてきた亡霊である」と述べており、なぜこれこれの作品でしかじかの概念について語り、別の作品では別の概念について語るのか、という問いから究極的には逃れられない構造になっている。それに対してデューリングは、ヒッチコックの『めまい』という作品を分析するなかで必然的に浮かび上がってくる問題を名指すものとして結晶イメージを導入する。

デューリングは『めまい』という奇妙な物語を駆動する「〈空間〉のタイプtype d'espace」---「トポロジカルなカテゴリー」として考えてよいだろう---として「メビウスの輪」がそれに相当すると述べる。つまり、この作品における反復や旋回のモチーフは、単なる渦巻きや螺旋によって形象化できるものではなく、トポロジカルな捩れ、「それ自身へと折り重なる」ような捩れこそが、この作品を統御しているのだとされる。結晶イメージが示す二重性(知覚と記憶の同時的な重ね合わせ)は、単一のショットやシーンに現れるのでなく、作品における個々のモチーフから物語構造に至るまでを貫くこの空間のタイプと結合している限りで、作品へと適応されうる。》