●お知らせ。2月16日づけ、東京新聞の夕刊に、東京国立近代美術館の「熊谷守一 生きるよろこび」展についての美術評が掲載される予定です。クマガイの小さなサイズの作品ではスケール感の底が抜けているということについて書きました。
●「レトロ未来」を再読した。「スーパータイム」を読んだ後だと、さらに面白い。以下、エリー・デューリング「レトロ未来」(新村一宏・訳「表象・メディア研究」第5号)より、引用、メモ。
●まず、ベルクソンの要約
《私はこのテーゼをベルクソンの哲学を参照しながら形づくりました。(…)ベルクソンによれば、知覚が弱まっていき、アーカイブや痕跡の形になって場所を譲ってから記憶が形成される、ということはありえません。記憶は直ちに、知覚と同時に形成されるのです。そうでなければ、記憶はいつ形成されるのか、分からなくなってしまいます。思い出された記憶は、常に、我々の現在の生のエピソードです。それは、我々が現在に形成する、過去のイメージだからです。しかし、純粋な記憶は、まるごと過去の要素に属します。純粋な記憶を求めるのであれば、それが存在している純粋過去の領域に一挙に身を置かねばなりません。》
《(…)我々の記憶の経験がそこに通じている純粋過去は、イメージがびっしり書き込まれたノートでもなければ、我々の今までの人生のアーカイブでもありません。(…)純粋過去は、直接的に過去なのです。純粋過去は、最初から過去として形成され、この意味で現在と過去は共存しています。同時に、記憶は知覚が過ぎ去るのを待つ、ということもありません。記憶と知覚は同時だからです。記憶は知覚の弱まった反響ではありません。むしろ、記憶は知覚の鏡に映った像であり、潜在的な分身なのです。各瞬間に、知覚は現在と過去に、知覚と記憶に分裂し二重化しています。時間とは、この分裂そのものなのです。》
●以上をふまえての、展開。
《過去が過ぎ去った現在に属するのではないならば、過去が現在の枯れた外皮や時間の流れの残留物以外のものであるならば、過去が本当に現在であったことがないのであれば、同じことが未来にも言えるはずです。未来は一種独自の、固有の存在様態を享受しています。未来は、待機状態の、現実となることを待っている現在ではないのです。また、未来は、こうなるだろうという単なる現在の表象でもありません。たとえ未来が決して現在に現実化することがなくとも、未来は完全に、少なくとも何らかの様態ですでに存在しています。その様態こそがレトロ未来なのです。》
《この未来は、非現実ということとは全く異なります。現時点からすでに、この未来は過去から見た未来として活動しており、我々が「未来」と呼んでいる現在から見た未来は、過去の未来によって培われているのです。そうすると、未来は過去の沈殿物にすぎないのかもしれません。》
《(…)未来は我々の前に、未踏の領域として広がっているのではありません。未来は、現働化を待っている可能性としての現在よりも前にあるのでもなければ、その可能性の実現として現在より後にあるのでもありません。未来と現在は、まったく同時なのです。それは、過去の未来によって開かれた展望です。》
《未来がすでにここにあるのなら、それは、そもそも今なおあるのであり、過去の時代から解放されたポテンシャルの集合として、未来は現在に存在し続けているからだ、と。》
●「未来」の存在様態について。
《未来存在は、それを目指す意識の中に宙づりにされているのではありません。それはある確実さ、固有の存在論的濃密さを持っています。(…)主体が自らの観察点から前を向くというような、表象や意識の状態という、未来は我々の中にあるというイメージをすてればよい。》
《未来の存在様態、それは過去から見た未来なのです。そしてこのレトロ未来は、存在しない時間、並行世界、偽なる別の歴史に、必然的に関係しています。》
《(…)本当に存在する唯一の未来は、我々の現在のただ中、もしくはその周辺に存在する、過去から見た未来、レトロ未来なのです。もう少し正確に言いましょう。レトロ未来はとりわけ過去に属しているのではない、まさに今、活動しているのです。それは痕跡や残像ではない。それは存在であり、他のあらゆる存在と同じように、現働化の切っ先を通じて自らを現働化し行為の中に自らを表す力に応じて、様々な程度で存在しているのです。》
《レトロ未来の存在様態は、この意味では、記憶の存在様態によく似ています。すなわち、記憶は、意識の中のスクリーンに投影された劇のようにしてイメージの中に現働化するのではない。記憶は、イメージに凝結したり固定化する前は、ぼんやりとした、純粋過去の要素と考えられる、不確かな存在なのです。》
《(…)レトロ未来の存在様態は、ポテンシャル、子供に与えられた可能性や才能に似ています。このポテンシャルはすべて実現するわけではありません。》
《レトロ未来とは、潜在的な諸々の未来なのです。そういうわけで、その活動性はたいていは目立たず、知覚が難しく、ほとんど幻影のようなものなのです。》
《様々なレトロ未来は、雲や光のかさのような形状を帯び、過去から発した光のように、霧のように我々にまでとどくことになるのです。》
●レトロ未来の再活性化、生成
《(…)生成が何かしら積極的で、あるいは真に創造的なものを内包しているのなら、次のような単純な考えは放棄すべきでしょう。それは、過去は現在として存在した後に過去になる、という考えと、現在が未来を現実化する、という考えです。むしろ、未来が描かれていく現在のただ中における、無数の過去から見た未来の共存を、考察すべきでしょう。》
《こうした未来は、それをどう再活性化するかという方法に応じて、様々な程度で確かに存在するでしょう。再活性化とは、現在のもつれを構成し、ある意味では動的瞬間を決定づける、時間のモンタージュを進めることです。これが、過去の未来は「潜在的」未来という意味です。「潜在的」とは、「現実ではない」ということではありません。すなわち、過去から見た未来とは、実現されなかった、もしくは実現を待っている可能性、ということではないのです。そうではなく、ベルクソンの表現でいう「動的図式」であり、どんな表象やイメージも汲み尽くすことのできない、完全には発展していないイメージもしくはイメージの束なのです。》
《タチの映画(『プレイタイム』)で印象的なものは、彼が打ち立てる二つの回路と、関係づけられたものの間に設定される識別不可能な関係性です。過去から未来へと向かう運動と、未来から過去へと向かう運動、つまり、未来の過去化と過去の未来化という、二つの運動が存在しています。しかしこの二つは、まったく違った方向のように見えて、実は一つなのです。同じことになりますが、こうした運動は、我々の歴史にしるしを与える、過去、現在、未来という時間の平面の慣れ親しんだ並びを混乱させるという固有性を持った現象の効果にすぎないかもしれません。こうしたことが、その典型的な実現例を通してみたレトロ未来の方法です。》
●ポラロイド、インスタグラムによるインスタント・ヴィンテージ、過去から見られた未来としての現在(この括りの最後の引用、超重要)。
《(…)インスタグラムの効果は、一瞬のうちにタイムカプセルの代用品や、現在の疑似アーカイブを作り出すことにあります。インスタント・ヴィンテージ(即席の年代物)とでも呼べるでしょう。昔のポラロイドも、アナログな方法で、現在の記憶を写真的に組み込むすべを獲得していました。しかし、インスタグラムは、バルトの言う「プンクトゥム」を直に鈍らせました、正確に言うと、プンクトゥムの鋭さを削り、しるしのない時間の中に漂わせることになったのです。確かにかつて存在していたが、写っているイメージはもはや過ぎ去ってしまったのだという写真に固有の情緒は、現在に張り付きながら現在を肥大化させる、ぼやけて不確かな持続の中で弱まっています。まさに、記憶の曖昧さではなく、知覚の等価物において瞬間的に姿を変える現在を、その独特な構造によってポラロイドは実現したのです。ぼかしや、過去の色彩、彩度、多量露光の効果などのことです。不可逆的ということからは程遠く、記憶の明確化の過程に関しては、あらゆるものは一挙に、即席のタイムカプセルとして与えられます。》
《インスタグラムは、写真の「かつてあった」もしくはその前未来への置き換えである「これからもあるだろう」という特徴を、「今あった」というある種の現在の半過去に置き換えてしまいます。》
《デジタルメディアの魔法によって実現されたことは、一種の潜在的未来によって二重化された現在による、時間のかすかな交換であり、錬金術のような不思議な転換です。イメージの色合いは、未来としての我々の現在を対象とするフィクション的時間をひらきます。より正確に言うなら、過去の色合いや好みをいまだに保存しているはずのその過去の未来としての我々を対象とし、過去を我々に向けることができ、過去の要素を直接支えとする、未来化の運動によるレトロ未来です。》
《それはもはや、過去として見られた現在(現在の半過去)ではありません。それは未来として見られた現在、我々の時代のただ中に存在し続け、奇妙に入り込んでくる何かしらの過去から見られた未来としての現在です。》
《(…)インスタグラムの疑似ヴィンテージも、未来の一般的形式の中の過去の弱まった残像や反響としての現在の把握の印象的な実例を提供していることになるでしょう。そうして、現在の先取りないし投影、現在のただ中の現在の未来の反響が、ベルクソン風に言えば知覚とまったく同時である現在の記憶が、存在しているはずなのです。来たるべきものとしてとらえるなら、現在は知覚の対象でもあると同時に、予感の対象でもあることになります。現在は、予感されると同時に生きられ、生きられるものとして予感され、投影されると同時に生成するのですが、いわば、我々の背中に、過ぎ去った時間の光のように投影されるのです。》
ジュール・ヴェルヌ(過去の世代)と、後ろから照らされるレトロ未来。
《もちろん、過去の世代は、彼らにとっての現在の光の下に未来を思い描いていたのであり、今日では過ぎ去ってしまった現在のしるしをそこに強く刻み込んだのです。未来は存在しない以上、他に何ができたでしょう?》
《(…)注意すべきことは、こうした未来の想像図を参照する際、ノスタルジックな、もしくは皮肉な仕方、あるいはコレクションやアーカイブの幾分フェティシズム的仕方によるほかはない、という我々の現在の無力さです。》
《当時、ヴェルヌはただひたすら幻想的でした。彼は、彼自身の未来にとりつかれた現在を演出したのです。それゆえ、問題は、ノスタルジックな回顧とは全くちがったやり方で、その当時の時間の弧を我々が感じることができるのか、つまり、当時はまだ潜在的で、その時の現在とほとんど見分けのつかない未来の線にすぎなかった歴史の回路を、我々の現在のただ中まで延長して混ぜ合わせ、感じることができるのか、ということにあります。》
《我々の背中に、それはまず未来である過去として投影されているのです。ただし、この過去は、生き生きとしたものであり、未来の前という閉じた地平をはみだします。ここで問題になっている未来は、その起源において我々の後ろにあるのです。その未来は我々より先にあり、その行先はまさに我々かいる現在なのです。》
《本当に同時代的で、創造的ポテンシャルを秘めているレトロフューチャリズムは、未来としての自分自身のイメージを生みだすことのできる現在として、また同時に過去のイメージを生みだすことのできるものとして、際立っています。その過去はレトロ未来に含まれるものであり、レトロ未来が必然的にこれに遅れるのは、レトロ未来は過去よりも遠くから来たのであり、あらゆる世代によって作られ、我々が知らずに受け継いだ過去、我々の現在はそれにとっては投影か白昼夢のようであるけれど密かに作動している過去に、このレトロ未来は関連するからです。》