●(つづき、『実在への殺到』について)この本は、西田の時間論で締めくくられる。時間についての西田の思索は、「現在」に対する「過去」「未来」という時間の非即自的なあり様と、「私」と「他者」という、それぞれ異なる人格とともにある時間にかかわるものが、複合されるように考えられている、と。時間は、「現在を感じる自己」なしにはあり得ず、「時は自己のあるところにある」「したがって時は無数にある」とされる。
《それ(現在)は因果的に過去から決定せられる世界ではない、すなわち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、すなわち一の多でもない。(…)過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来たらざるものでありながら現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来が対立し、時というものが成立するのである。》(「絶対矛盾的自己同一」)
多の一は、既に知られた部分から全体が構成される世界、決定論的世界であり、一の多が、未来に投影される目的(あるいは全体)から現在(部分)が遡行される目的論的世界であるとすれば、多の一を否定する一の多によって決定論的世界を差異化することが可能になるが、しかしそれはすぐさま多の一によって否定されなければ目的論的世界となる。ここで、過去(から未来へすすむ流れ)である多の一と、未来(から過去に遡行する流れ)である一の多が、互いに否定的に交錯することにより、「新たな個物」が創造されることが可能になる「現在」がひらかれる。
《(…)西田が語る現在は《多の一》と《一の多》が交錯反転する地点である。制作論においては、「形」が「形」によって限定され、個物が制作されるところに、こうした交錯反転があった。しかし「現在」はそれだけで、《多の一》と《一の多》の両者がそれぞれに否定されて、しかも結びつく能動的な起点なのだ。》(P228)
たとえば、人が環境をつくり、人と環境の間に持続的で循環的な関係があるとすれば、環境も独立した個物として、人をつくる。そのまるごとが「現在」であるとすれば、現在は瞬間ではない。そして、この循環の「形」は、持続しつつも変化してゆく。現在は常に別の現在へと、そのあり様を変えていく。制作論において、ある「形」が別の「形」によって限定されることによって、新たな個物が作られたように、現在もまた、それとは別の現在によって限定されること、そこで生まれる拮抗と反転の、複数展開される異なるあり様により、新たな現在が生み出されていく。
ある現在の「形」は、それとは異なる別の現在の「形」によって次々と限定されていく。これらもろもろの「形」は互いを絶対的に否定しあう異質なものであるが、同時に、ある潜在性のなかで(袋詰め的に)並存しているともいえる。あり得る、あらゆる現在の「形」が並存している潜在性の場を「永遠の今」とするならば、「永遠の今」が自己限定しつつ、どこまでも分化していくのが時間であり「現在」であるといえる。
しかし、これらのそれぞれ異なる「現在」たちの間には、(相互に限定し合っているのだから)絶対的な断絶が差し挟まれている。西田によれば、過去の自己、過去から見た現在の自己といった、非即自的な時間における自己は、絶対的な断絶を孕んだ「他者」であることになる。そして西田は、この「他者」を「物」として捉えてもいる。次に引用(孫引き)する「汝と我」の部分はとても興味深い。
《自己の中に無限に自己自身を限定する他を見ると考えられる時、即ち現在の底に無限の現在自身を限定する現在が考えられる時、その内容は何処までも知識的に限定することのできないものでなければならない。かかる内容が我々に情意の内容と考えられるものである。知識に於いては我々は物を外に見ると考えられるが、情意においては物を内に見ると考えられるのである。情意の内容というのは、我々が物を物として見るのではなく、物を我として見ることによって、物を人格化することによって、我々が物に対して有(も)つ我々の自己限定の内容である。》
《自己の内に自己を見るという自覚に於て、内に見られる絶対の他と考えられるものは物ではなくして、他人という物でなければならない。而してかかる他が自己に於て見られると考えられるかぎり、それは自己でなければならない。自覚的限定の形式に於て物の人格化ということが考えられるのである。而してかかる人格的世界の内容が情意の内容と考えられるものでなければならない。》
現在が現在を限定する時、過去の自己は既に「汲み尽くしがたいオブジェクト」としての他である。非即時的な自己は他人であり、モノである。しかしそのモノは人格であり、「思うにまかせぬもの」であり、そしてそれこそが自己でもある。
《非即自的なモノの世界を考えるために、西田はメイヤスーのように「偶然の必然性」ということは言わない。世界の物理法則が変わることも、必ずしもそこでは必要ではない。ただ、それは思うにまかせぬものとしてあり、絶対的に他なる物であり、情意において感じられるものでありながら、しかも「自己の内に」ある、と述べるのみである。私たちはそれを《自覚》することができるのだと。このとき、物と自己の、非即自的なあり方は、すでにそれを「自己の内に」眺める、第三項的な現在の私にとって、《機会原因的に》作用しているのだ、とハーマン風に述べることもできるだろう。あらゆる生者とあらゆる死者のあいだの隔絶を中性化すること、究極的な再生の願望は、メイヤスーの思索の根本動機の一つであった。》(P234)