●お知らせ。けいそうビブリオフィルで連載している「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」の第14回、「量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(4)」」が公開されています。
http://keisobiblio.com/2017/01/18/furuya14/
以下、本文から引用します。
《『シュタインズゲート』の基本的な世界観は、(1)で書いたエヴェレットの多世界解釈にとても近いと解釈することも可能なものです。様々に異なる世界(現実)が無数にあるということもできます。しかし物語中にエヴェレットという名前は一度も出てきません。タイトルからもわかるように、意識されているのはアインシュタインです(つまり、古典物理学です)。世界が無数に分岐していることを示す「世界線」という言葉も相対性理論からとられていると考えられます(ただし、そうだとすると用法が間違っているのですが)。この物語の無数に枝分かれする「世界線」という概念は、タイムパラドクスを解消するためのアイデアとして考えられたもので、量子力学から導かれたものではないようです。》
《『シュタインズゲート』は、第一にはタイムマシンの物語です。タイムマシンによって過去の分岐点に介入することで「世界線」が移動し、今ここがいきなりがらっと変わってしまう、というのが物語の主な展開です。しかしその世界の変化(による落差)を知ることができるのは、主人公の岡部だけです。「世界線」が移動すると、過去の分岐点から未来に渡ってすべての現実が変化するのですから、その世界内の人にとって齟齬はないはずなので、それは当然です。岡部だけが変化前と変化後の両方の記憶をもつということは、彼(の記憶)だけが前の「世界線」から今の「世界線」へと移動してきたとも考えられます。ここで「世界線の移動」という出来事によって、世界そのものが変わったのか、主人公の「わたし(視点)」の位置が移動したのかという点については両義的です(この点は後で詳しくみていきます)。》
《主人公の岡部は、東京電気大学に通う普通の学生ですが、中二病であり、自分は狂気のマッドサイエンティストで(「狂気」と「マッド」が被っていますが)、世界の支配構造を変革するために世界を裏から支配する「機関」と闘っているという「設定」を演じています(常に白衣を着ています)。これは、何不自由のない大学生の呑気な妄想(遊技)に過ぎませんが、この遊技がそのまま現実となり、彼は、CERNという「未来の世界」を支配する機関と闘い、未来の世界を変えることになるのです。妄想と現実がシームレスにつながるのです。(…)しかしこの「革命」とは、過去に遡って分岐点で方向を変えるということなので、世界の内部では何事も起こらず、革命があったことを(CERNが支配するディストピア第三次世界大戦が避けられたことを)知っているのは、岡部とその周辺の人物だけなのです。》
《私たち(観客)は、この物語をただ岡部の視点からのみ経験します。「世界線」を移動してもなお、それ以前と連続した記憶を保ちつづけられるという岡部の能力(この能力は中二病的にリーディングシュタイナーと名付けられています)がなければ、過去への介入によって世界がいきなりがらりと変わるという、この「物語」そのものが構成されないからです。つまりこの物語は、主人公である岡部の主観上に構成される物語なのだと言えます。そうである以上、「世界線の移動」という出来事が、現実そのものが移動したのか、岡部の記憶と意識が移動したのか、どちらか決定することはできないはずです。前者であれば現実は一つですが、後者であれば現実が一つだとは言い切れません。あらゆる「世界線」は現実であり、生きて、動いているかもしれません。》
《しかし、背景にある無数の多世界を認めてしまえば、つまりあらゆる可能性が同時に実在するとなれば、物語が成り立たないし、そもそもそれ以前に、あらかじめすべてがあるのなら、「何かをする」ということの意味もまた消えてしまします。これはこれで、単線的決定論とは別の意味で「出口なし」になります。しかし仮に、あらゆる可能性が実在するのだとしても、「わたし」はそのうちの限定されたどこかにいるしかなく、その位置からの限定された視点しか持つことができません。『シュタインズゲート』という物語を可能にする主人公岡部は、無限にとりとめのない「地」としての世界から、いくつかの部分を切り出してきて縫い合わせることで、「図」としての物語(認識可能な世界)を紡ぎ出すための、一つの限定的な視点であると言えます。》
《ここで「重ね合わせ状態/固有状態」という不連続を表すスラッシュの位置に観測者がいます。つまり、重ね合わせの量子状態と決定論的古典状態の間にある「非決定論的出来事」を引き出すためには「観測者」が必要なのです。》