●「シュタインズゲート」劇場版(負荷領域のデジャヴ)のDVDが出ていたので借りてきて観た。劇場でも観たので二度目。「ガッチャマンクラウズ」の後だと、オカリンの声の端々にベルク・カッツェのイメージが重なってしまう。
驚くべき傑作「シュタゲ」のつづきとして考えれば、作品として上手くいっているとはとても言えない、残念な感じのものと言わざるを得ないと思う。特に後半の展開はひどいと言うか、当の制作した人たちこそが「シュタゲ」という作品がどれだけすごいのか分かってないんじゃないかとさえ思ってしまう。
とはいえ、オカリンが存在したりしなかったり、まわりの人たちの記憶からオカリンが消えたり現れたりするその感じは、背筋が寒くなるくらいリアルだと思った。この部分は、フィクションというものの根幹というか、あるいは世界の在り様のやばい部分(人間にとっての世界があり、世界にとっての人間があるという時、その関係におけるヤバい何か)というか、そういうすごいところにまで届いていると思う。そこに触れ得ているというだけで(他の部分がダメダメだとしても)、この作品はやはりすごいと言うべきだろう。
この作品から、SF的な設定や人を納得させるための理屈の部分を差し引いて、純粋にリアリティだけを抽出すると、高橋洋の『恐怖』や『血を吸う宇宙』のようになると、ぼくは思う。根底にあるリアリティの感触はすごく近いと思う。世界が複数同時に存在すること。だからこそ、経験したはずのないことを思い出すこともある、ということ。そして、決して思い出すことのない記憶を忘れてしまうこともある。忘れるということは、「忘れた」ことさえ忘れてしまうということで、そうだとしても、「忘れたことを忘れた」ことを思い出すことはあるかもしれない。『「≪決して思い出すことのない記憶≫を忘れてしまった」ことを忘れた』ということを思い出す、とか。そしてその感じこそが、世界が多数あるという「物語」にリアリティを与えるのではないか。
このリアリティは、客観的な世界に関するものでも、主観的な記憶に関するものでもなくて、客観と主観とがクロスするところに現れるようにものではないか。現実世界があって、潜在的な世界(可能世界)があるのではなく、あらゆる可能性は同等に存在し、それら無数の世界=線が「一つの脳」のなかで交錯し、その一つの脳の作動こそが「一つの現実(世界)」を構成するのだとしたら…。あらゆる可能性がすべて客観として存在し、そして、それらを交錯させる結節点となる「一つの脳(主観)」もまた無数に存在し、無数の可能性=客観と、無数の「一つの世界」=主観との交錯こそが、虚構として無数の「一つの現実」を構成(あるいは産出)する。
一つの脳のなかには、すべての可能性が響いてはいるが、脳はそのうち一つを抽出し(思い出し)、それ以外のことは決して思い出すことなく、忘れる。そして、忘れたことを忘れる。そのような脳の作用(二重の忘却)が「現実」という排他的な一つのケース=シミュレーションをつくりあげる。とはいえ、時に「忘れたことを忘れた」ことを、とても強烈に思い出す。この時一つの脳は、この(内容を欠いた想起の)強烈さによって、「一つの現実」こそが虚構(シミュレーション)であり、無数の世界の方こそが≪現実−リアル≫であるという感触に突き当たるのではないか。「シュタインズゲート」や『恐怖』から得られるリアリティは、そういう形をしているように思われる。