●高谷史郎「明るい部屋」を観るために東京都写真美術館へ。二度目。
「Toposcan」。目を奪われ、言葉を失う、という経験。眼を極度に興奮させる、極度に穏やかな(ひょっとすると、冷たい)もの。眼と耳から「感覚」へと繋がり、その風景と音は、静かな、穏やかな、クリアーな「感覚」を立ち上げる。眼から「欲動」へ繋がり、その高解像度の映像は、波立ち熱く発熱する「欲動」を惹起させる。感覚と欲動が、言語や他者(情動・感情)への回路を切断されたまま、溶け合うことなく同居する感じ。あるいは、身体との回路も切断され、眼・耳=感覚と、眼=欲動という二つの回路が、外への通路(言語、他者への感情、物理的世界のなかの物理的身体の存在へのアクセス)を断たれて、孤立したままループする感じ。そのループのなかから、世界に関するまったく新しい感触が浮かび上がってくる。つまり、この作品を観ている「身体」は、眼と耳と感覚と欲動だけで構成されている身体であり、そのような新たな身体が、作品=世界と関係する。それは、まったく別の惑星に、別の身体をもって降り立ったかのような感覚を生む。
●それは、眠る(夢を見る)ということと、少し近いかもしれない。隣で観ていた女性は、いびきをかいて思い切り眠っていた。この作品を観ながら眠ったら、すごく頭がすっきりしそうではある。でも、この作品を観ながら眠り、目が覚めると、世界には自分一人だけしかいなかった、ということになったりしそう。あるいは、自分もいなくなっているかも。
(そういえば、柴崎友香の短編「寝ても覚めても」--同タイトルの長編とは別の作品--に、恐らく高谷史郎の作品だと思われる装置を観ながら眠っている人のことが書かれていた。)
●目と耳と感覚と欲動だけでできている身体にとって、感覚とその対象、あるいは自己と世界との区別はない。欲動の向かう対象は視覚像そのものであり、視覚像は感覚器官としての眼(と網膜)と切り離せない。身体的行為は、見ることと聴くことと興奮することだけであり、そこに能動性はほとんどなくて、だから世界(作品)の運動‐変化がそのまま、身体の運動ということになる。
とはいえ、視覚像は視界を覆い尽くすことはなく、暗闇のなかでも一定の距離が意識され、しかも横に長い八つの小さなフレームに分割されている。だから、その八つのフレームの間の視線の移動(眼球の運動)としてのみ、身体の能動(運動)性は確保されていると言える。
身体と世界とは、区別がつかない程度に混じり合っているが、完全に合一になることはない。しいて言えば、身体は、八つのフレームの分裂の、「分裂」として経験されると言えるかもしれない。
●世界‐映像はパノラマのように横に広くひろがり、そのひろがりは八つのフレームによって分割されている。映像-風景はゆっくりとしたリズムで場所を移し替え、その移動はループする。ごつごつした岩場‐波立つ海辺‐光の射す林の中‐小雨の降る湖‐晴れた湖、そして再び岩場‐海辺…。イメージは高い解像度で示され、すべて人の気配をまったく感じさせない風景である(それは地球とそっくりだが植物以外の生物のいない別の惑星の風景、あるいはソラリスによる幻影のようだ)が、晴れた湖の風景にのみ人間の存在する痕跡(ボート、舗装された道と桟橋)がみられる(故にボートの出現はかなりショッキングであり、このボートの出現がこの作品の唯一の「物語性」と言えるかもしれない)。
●風景の映像はゆるやかに変化するが、三つの状態の変化しかない。1.動画、2.静止画、そして画像の解体(あるいは画像のマトリクス)としての3.横縞模様。動画においても、動いているのは風で揺れる植物や波立つ水面だけであり、つまり、(映像内には)運動はみられるが、時間の流れ(展開)は存在しない。時間(展開)は、例えば動画から静止画、横縞模様から動画、というような状態の変化としてのみあらわれる。状態の変化は(一斉に別の風景へと移行する以外では)、常に、右端か左端から始まり、左から右へ、右から左と順繰りに流れてゆく。だからこの作品における時間の経験は、左から右へ、右から左へという風に空間的な流れへと変換できる。
●眼と耳と感覚と欲動だけとなった身体は、物に触れることも大地に立つこともない。この身体にとっての世界には物も大地もない。この作品を観る者はそのような未知の惑星に降り立っている。作品を観る「この身体」にとって世界の基盤は作品=視覚像と音そのものだけになる(映像と音のみで「世界」と言い得るものを構成し得るほどの密度がある)。だから、映像の三つの状態の変化はたんに視覚的な効果ではなく、世界の様相の根本的な変化である。この身体が住むこの世界では、時間は世界の様相の順繰りの変化として現れる。
だから、映像の状態が、動画から静止画になり、さらにそれが横縞模様へと変化する時、世界そのものがそのように変化‐解体されたのであり、それを観る身体は世界の解体そのものを経験するのだし、横縞模様の明滅を観る身体は、自身もそのような抽象的な明滅になって、そのなかに「住んでいる」のだ。
観ていることが、たんに「観ている」ことに留まることができない。
●作品‐世界は横に長く広がる空間(視覚像)であり、それは横並びの八つのフレームに分割されて示されている。状態の変化は端から順繰りに起こるから、多くの時間で、三つの異なる状態は八つのフレームにばらけて空間的に共存している(動画も静止画も縞模様も、八つのフレームのどこかにある)。眼球を動かすくらいしか能動性をもたない身体も、その眼球の運動による視線の移動によって、三つの状態を行き来することができる。
しかし、眼と耳と感覚と欲動だけで構成され、言語や他者や手足へのアクセスを切断されている身体は、異なる感覚や異なる欲動の対象に応じて、その都度、自身をあり様(身体そのもの)を変化させるしかないから、俯瞰的、メタ的な視線となることはできない(安定した基盤としての身体がない)。身体は、横縞模様から動画が生成し、動画から静止画へとフィックスされるというその相転移を、(それは「世界の基底的形式」の変質なのだから)その都度、自らの身体の変質として、ショックとともに受け取ることになる。
●これらのことはすべて、言葉や他者や手足から切り離されたところで起こる。