●国立新美術館に、もう一度松江泰治を観に行った。
●松江泰治の作品の衝撃は、まずそれが身体と完全に切り離された視覚であるところから来るのかもしれない。それは主に、視点の位置と異様な解像度とフレームの限定による。身体をもった人は、まず、そのような位置から世界を見ることが出来ないと感じられる(実際には撮影者がカメラを持って「そこ」に行って撮っているのだろうが、出来上がった写真からは「そんな視点はありえない」と感じられる)。それから、人の目はそんなに隅々まで等しく焦点を合わせることが出来ない。そして、人の視界の周辺部はそんなにきっちりと切り取られないし、目は常に動く。
実際に「そこ」へ行って撮っているはずなのに、「そんな位置はありえない」と感じる理由は風景が俯瞰されていることもあるけど、フレームの選択があるのだとも思う。これは、すべてに等しく焦点が合っていることとも関係するのだろうが、そのフレームからは「フレームの外への広がり」が感じられない。例えば、アスファルトのザラザラしたテクスチャーを撮影すると、写真に写るのはまさにそのテクスチャーであって、道路の空間的な広がりはその写真からは感じられない。松江泰治の作品は、そのようにしてもっと広い領域が撮影されているという感じで、風景や空間ひろがりが撮影されているわけではないと感じられる。つまり空間を感じさせないような構図が選択されている。例えば福居伸宏の写真だったら、ぼくは異様なくらい引き込まれて細部を凝視してしまうのだが、それは細部がクリアーなだけでなく空間が捉えられているからで、松江泰治の写真ではすごい解像度で街が写されているのにそれほど凝視はしない。それは、風景や空間や地形ではなく、テクスチャーとしての地表が撮影されているからだと思う。風景や地形がテクスチャーに還元されてしまっている。だから、はじめからフレームの外やひろがりが問題にされない(空間が問題ではない)。「視点がない」という感じは、おそらくそこからきている。しかし身体は常に空間のなかにあり、視覚の一義的な機能は身体が活動するために様々な距離をはかることだから、作品の視覚から身体は締め出されることになる。
●しかし「cell」というシリーズはまたちょっとことなる。それはおそらく、アスファルトのテクスチャーを撮影しようとしたら、たまたまそこにアリが映り込んでいて、その部分だけを拡大した、という感じだと思う。つまりここでは、人間たちが、アリのように、ダンゴムシのように、ミミズのように撮影されている。このような視線はともすると神の視線であるかのような超越的な感触を強くまといがちだ。さらに我々は既に、このような超俯瞰の画像にはグーグルアースなどで馴染んでさえいる。しかしここでもフレーミングは特異であり、周囲の空間との連続性を断ち切るようにトリミングされている。つまり、俯瞰が俯瞰であることを最も強く感じさせる「見通せる感じ」がない。しかもフレームが正方形という完結性の強い形態で、ここでも「フレームの外への広がり」が抑制されている。あきらかに超俯瞰の視線を感じさせながらも、一つ一つのフレームはあくまで断片であることが強調されている(地理上、風景上のある地点にあるという関係-文脈が断ち切られている)。さらに、撮影されている人たちがあきらかに撮られていることを知らない。つまり、彼ら彼女らはそれを見ている「こちらの視線」にまったく関心がないように見える。このこともまた、それを見ている「わたし」から(見返されるもの、眼差しを向けられるものとしての)身体を剥奪する。いや、ここでは身体というよりも「存在」を剥奪されると言うべきかもしれない。わたしの視線から「わたし」が消滅してしまう。
そこに映されているのは、日常的なスナップのような事柄なのだが、台に並べられたそれを覗き込んでいる「わたし」は、そのありふれた情景から遠く隔てられていて、そこには決して届かない、その世界のなかには入れないと感じる。
●映像の(動画の)作品は、風景に動きが加わる。それは、アリが巣へ餌を運んでいる姿を定点カメラを撮った映像を想起させる。しかしそのスケールが大幅に拡大されている。アリを撮った映像であるならば、その映像と自身の身体とのスケールの比を自然に想起出来る。つまり普通に見ることが出来る。しかし、スケールがここまで拡大されると(しかし映画のスクリーンのようにはモニター自体は馬鹿でかいということはない)、そこに映っている映像と自身の身体のスケールの比を想定することが難しい。つまり、その空間のなかに自分の身体を置くことが出来ない。ここでもまた、それを見る人は身体を剥奪される。剥奪されるというよりは、(自分をとてつもない巨人だとでも想定しない限り)自分の身体を書き込む場所を世界の内部に見出せなくなる。だから、身体が、あるのに/ない、という状態になる。
空間的なスケールの混乱は、時間的なスケールの混乱につながる。クリアーに見えながらもあまりにも遠く見えるその映像は、距離の無化と同時に速度の無化をも生じさせる。遠く高い空を飛んでいる飛行機の速度は速いのか遅いのか分からない。それと同様、遠くの崖っぷちをアリのように貼りついて動くトラックの速度は、速度とは別の何か、時間の外で働く「時間そのものを司る振り子運動」であるかのように見える。あるいは逆に、動くものがあまりに遠いので、それを見ているわたしが時間の外にはじき出されてしまったかのように感じられる。
さらにこの映像が異様なのは、「動くもの」以外はまったく何も変化しないという点。まったくの静止画のような画面の中央の道路に、時折車がすーっと走り抜け、あるいは線路を電車がはしり抜けたりするのだが、その「動く部分」以外は完全に静止していて、風も吹かなければ、ホコリも舞わないし、光の変化もない。つまり、世界が静止し時間が止まっているのに、何故かそこに動くものがあらわれる、という感じなのだ。時間の外で動く何か。この気持ち悪さといったら、今までに経験したことのないものだ。
ここで面白いのは、あくまでテクスチャーとしてあって、空間や距離を無化しているかのような作品に動きが加わることで「遠さ」という距離が感じられるようになることだ。風景の写真は、触覚的でありほとんど距離や空間を感じさせない。「cell」のシリーズは、正方形にトリミングされることで、「フレームの外(文脈-空間)」とは切り離されつつも、しかし、クローズアップの効果によって(拡大するとザラザラがデコボコになるように)触覚が視覚化し、フレーム内部に小さな空間をたちあげている。映像の(動画)の作品では、触覚的な風景に動きが加わることで空間-距離とは異なる「はるかな遠さ」という距離を感じさせるようになる。シリーズによってそこで捉えられる触覚-視覚-距離の感覚が少しずつ異なっているところが面白い。
●そして、これらの作品が同時に展示される。風景や映像作品は壁に垂直にかけられ、「cell」は台の上に水平に並べられる。二つの部屋があり、どちらも、向かい合った長い壁に風景写真が四点ずつ(4×2)、向かい合った短い壁に映像モニターが一点ずつ(1×2)、そして中央の腰よりやや低いくらいの台の上に「cell」シリーズが4×8枚並べて置かれる。一つめの部屋の風景は街であり、二つめの部屋の風景は建物のない地表である。しかし、このような展示はインスタレーションのように一つの空間を形作っているというより、一つ一つの画像は単体としてあり、切り離されているように感じられる。つまり、作品が「この空間」のなかに配置されているのではなく、三つのシリーズが「この空間」からは決して届かないどこか別の場所への、それぞれ別の種類の「届かなさ」を表現し、それらがモンタージュされているように思われた。
●美術館で売られていた写真集を買おうかと思ってずいぶん迷ったのだが、ぼくにとってこの展示が衝撃的だったのは、三つの異なる「届かなさ」が同時にあるからであり、そして最も強く惹かれたのが映像(動画)の作品であって、同一のシリーズだけで構成されている写真集だけでは、それは感じられなかったので、結局買わなかった。