●渋谷のアップリンクで、『眠り姫』(七里圭)。うーん、これはぼくにはちょっと上手く乗れなかった。最後までこの作品と自分のチューニングが合わせられなかった。内田百けん私小説化されてしまっているというか、病んでゆく、ドツボにはまってゆきつつある人の「心理」の問題になってしまっているように感じられた。言葉(声)によって心理が語られ、映像がそれを強化するみたいに見えてしまった。内田百けんの気持ち悪さって、こういう心理的なことではないんじゃないかという感じが最後まで消えなかった。時間をおいて改めて挑戦する機会があれば、また違った感じ方もできるかもしれないが。
風景や事物の提示のされ方が、京都アニメーションとか新海誠の作品に似ているように見えてしまった。それらの作品では、日常的な風景、あるいはその断片が、日常生活という文脈から切り離されて(例えば構図がことさら強調されるように)提示されるがゆえに「かけがえのない、きらきらした日常」を表す記号のようなものとして機能する。そこでは、日常的光景が脱文脈化される(生活の「流れ」から切れる)ことで、距離が出来、日常への再帰が起こり、日常とノスタルジーのような感情とが結びつき、それによって風景が、空間的広がりや事物のテクスチャーの織りなす複雑な感覚的合成物ではなく、ノスタルジーや「かけがえのなさ」を呼び覚ます平板な記号となる(感情の隠喩となる)。
『眠り姫』ではそれが裏返されて、一方に病んでゆきつつある人(という言い方も一方的だけど)の心理が言葉で語られ、もう一方で、異化された風景やその断片、身の回りの事物を示す映像が「ふつうの日常」からの「解離」の感触(日常が遠のいて行く感覚)を表現する感じとして機能して、両方がぴったり合って「病んでゆきつつある人の心理」(マイルドに言えば日常への違和感)の表現となってしまっているように、ぼくには感じられた。この作品では、語られる対象となる人物がほとんど画面に映らない(対象化されない)からこそそれが語る者(わたし)として純化され、いっそう、作品全体として「一つの内面」と化しているように感じられてしまう。映像と言葉が同調し過ぎてしまう、というのか、映像が言葉の力に巻き込まれてしまう、というのか(最後のカットに「わたし」の分裂のような感触はあるけど、そこだけでしかそれを感じられなかった)。ある意味では、雑多と言えるくらいにいろんなことをやっているのだけど、それが雑多(出鱈目)に見えなかった。西島秀俊との会話もほとんど自問自答のように感じられる(分身の不気味さは、半ば自分でありつつ、半ば自分ではない、自分からこぼれ落ちて行く何か、というどっちつかずの感じだと思うのだが、これだと「わたし」と重なり過ぎる気がした)。「場所」より「わたし」の濃度が強くなってしまうというか、場所や風景や物が十分に語っていないというか、空間が開けていないというか。複数の運動や力が、絡まり合い、拮抗し、様々な作用と反作用とが共存する場として作品があるのではなく、一つの物語、一つ流れを過不足なく追うという感じになっているように見えた。いや、そもそもそういうことこそがやりたかったのだ、ということかもしれないけど。
もしかしたら、心理とかではなく、一人の女性の、身体とほとんど一体となっている、眠い、だるい、めんどくさい、という感覚(気分)を、女性の身体を映さないことで逆に、作品の隅々にまでより生々しく濃厚にゆきわたらせる、というようなことなのかもしれない。流れの滞るような「重たい(ペタッとした、というか)」の感覚は、眠さやだるさという身体的感覚と同調しているのかも。そのために、ある種の統一性が求められているのかも。しかし、それが(霧状に濃厚にひろがる、非定型の)身体性、触覚性となるというより、内面性の感触の方に強く振れてしまっているように、ぼくには感じられた(ここで言う「内面性」というのは、ある種の文学的な紋切型くらいの意味)。
面白いと思ったのは、例えば、トイレに貼ってある猫の写真がいきなり喋り出すところとか、主人公の女性が恋人の母親と会う場面の、コップとコーヒーカップの位置をめぐるアクションとか、最後の方で、長い顔の男を描いた絵が川を流れるのを追うフレームをいきなり鳥が横切るところとか。なんかそういう意外な運動が起こると、作品のなかに風が吹く感じ、内面という重力に取り込まれていない別の力が作用する感じがした。
(追記、4月5日)
●昨日書いた「内面」という言い方がちょっと乱暴だったかもしれないので、補足する。内面とは周囲の環境への違和感から生まれるだろう。日常生活の次元で周囲と完全に同調できていれば内面など生まれないし必要もないはずだから。内面は、環境と「わたしというシステム」の齟齬(関係)から生じ、その関係が「わたし」というシステムの内部に投射的に、表現されたものだといえる。「わたし」という場において表現(投射)された関係=内面は、それが齟齬であるのだから、齟齬の解消や乗り越え(関係の調整)の方向へ働く。そのためにそれは関係から発しながら、いったん「わたし」の内部に投影されながら、関係から自律(超越)するかのように振る舞うだろう。「内面」は、環境と「わたしシステム」(わたしの身体、わたしの気分、等々)のどちらからも切り離され、両者の中間に位置するようになる。だから「内面」は、環境への違和感と同時に「わたし(の身体、気分)」への違和感としても表現される。環境からも、わたしからもこぼれ落ち、双方に違和を感じる何かとしての主体-内面。ぼくが昨日、文学的な紋切り型としての「内面」とか「私小説」とか書いたものは、そのような違和感や齟齬の表出が内面として再度「わたし」へと収斂し統合されるような「わたし」の表現のあり様のこと。
これを「紋切型」と言ってしまうのはあまりに乱暴だ。ぼく自身が、このような「わたし」に陥ることをとても警戒している、ということで過剰に強い「紋切型」という言葉を使ってしまった。
勿論、このような齟齬や違和感は誰にとっても不可避のものだろうし、思考や制作の起点としては有効であろう。というか、そもそも思考も制作もそこからしかはじまらないとも言える。重要なのは、それが「わたし」とどう絡むのかということだと思う。だからこれはとても微妙なことで、だからぼくにとって看過できない重要なことなのだ。
●あと、風景がひらかれている感じとは、それがある特定の感情の喚起へと着地するだけでなく、同時に、思ってもみない方向へとアクセスが開かれる可能性を潜在的に秘めている、ということ、そして、その潜在性が予感として、気配として感じられるということ。例えば、フレームのなかの思ってもみないところから人が入ってきたりとか、フレームが移動すると最初に予測されたのとはまったく異なる空間が広がっていたりすると、その風景にまだ別の方向へと延びる潜在的な線もあり得るのではないかと感じられる、とか。