●ぼくがいつも散歩しているところを、テレビで地井武男が散歩していた(ひと駅散歩、狭間-高尾)。自分の生活圏のなかにあるよく知っている風景がテレビに映されると、それを自分が撮影したのに、撮影したという事実を忘れてしまっている、その、失われた記憶を見せられているような感じになった。身近にある、親しみを感じているもの(風景)が、テレビ放送のなかで、そこを芸能人が歩いているという、距離を感じるような別の通路からやってくること(しかし、テレビを観るというその行為自体は、身近なものである)の混乱が、そのような感触を生むのだろう。
「テレビから啓示がやってくる」っていう人の感触は、ちょっとこういう感じなのかも、と思った。
●ここ数日、「生活考察」という雑誌で読んだ春日武彦の文章がずっと頭に残っている。
《ここ一ヶ月、わたしはベッドで眠りに落ちこむまでのあいだにいつも、古ぼけたビルの一室に原寸大の無人踏切のジオラマが作られている光景を想像している。本当に土や砂利がフロアに敷かれ、レール(単線)も本物で、地面にはちゃんと雑草も生えている。電柱は天井の高さで切り取られている。もちろんいくら待っても列車は来ない。そもそもどうしてこんなジオラマがあるのかもわからない。自作自演の箱庭療法みたいなものだろうか。が、わたしは室内いっぱいに作り込まれた実物大のジオラマのリアリティーに胸をときめかせている。こんな無意味かつ鮮やかなものがわたしにとってのささやかな秘密であり、心の支えであり、来月にはまた別なイメージが(無意識のうちに)用意されるだろう。》(隠れ家の日々/秘密とマンネリ)
室内にある実物大ジオラマという、この妄想の中味自体はそれほど面白いものではないかもしれない。例えば、実際に「作品」としてそういうものを見せられても、「ふーん」という感じかもしれない。しかし、そのようなイメージを一人密かに頭のなかに思い描くことそのもの、そして、それを毎晩ベッドのなかで眠るまでの短い時間にすることで胸をときめかせている人がいるということを想像すること(例えば「レール(単線)」とわざわざ限定されていることで、「単線」であることは絶対的に譲れない何かなのだろうと感じること)が、ぼくのなかにとても強いリアリティを駆動させる。ぼくにとってはそれこそが「生活」というもののリアリティであるように思える。それは妄想の中味そのものというより、それが人や生活を支えている、そのメカニズムの感触のようなもの。