●朝からずっと雨が降っていたようだったが、部屋にいて書き物をしている時、11時過ぎに、ウグイスの声で雨があがったのを知った。雨があがって最初に鳴くのがウグイスで、徐々に他の鳥の鳴き声も加わってにぎわってくる。と思ったら、それはつけっぱなしのテレビから聴こえてきたものだった。と思ったら、ちゃんと外からも聴こえていた。まるで、外からの鳥の声と、テレビからの鳥の声とが呼応しているかのようだ。しかし、その両方を聞いているのはぼくだけで、この呼応はぼくの頭のなかでだけ起こっている。というか、外からの鳥の声とテレビからの鳥の声との関係が、いま、ここ、と、「ぼく」とを生じさせている。テレビが語学番組にかわって鳥の声が消えても、外からの鳥の声はしばらく聞こえつづけた。書き物をいったん中断して、散歩に出ることにした。出かける前に洗濯機をまわしておく。
●出かけると間もなく雨に降られて、空を見てこれ以上強くは降らないだろうと判断して歩き続けるのだが、予想に反して雨は強くなってきて引き返さざるを得なくなり、散歩の時間はあまり長くはなかったのだが、今日の散歩ではちょっと整理し切れないくらいに歩きながら爆発的に多くのことを考えて、興奮して還ってきた。主に「地形」について。そして、しばらくはいろいろやることがあってあまり動けないのだが、やるべきことを六月半ばくらいまでに済ませて、東京と神奈川の出来るだけ多くの鉄道路線に乗りに行く、ということを是非してみたいと思った。これだけではほとんど何を言っているのか分からないと思うのだが、興奮にまかせて自分のために書いておく。ぼくは地形好きの地図嫌いで、はじめて行く場所でもなるべく地図を見ないで済ませたい(今、歩いている道がこの先どうなっていて、どこにつながっているのかということが、事前に分かってしまうなんて「なんともったいないことか」と思ってしまう)のだが、そのことと、ぼくの電車好きはおそらく関係がある。ぼくの地形好きは、そこに自分の身体を持って行ってそこを通過させたい、そういう形で把握したい、いや、把握するのではなく、ぼくの身体と地形との関係によって、ぼくの感覚のなかのなにかが動き、そこに地形が再-形勢されるという、その出来事が起こる現場を経験したい、ということなのだと思うのだが、しかし、散歩によって体感できる地形のスケールはおのずと限界があり、それ以上の大きなスパンで地形を経験しようと思う時に、電車に乗るというのが最適なのだと思うのだ。例えば、相模平野の「平坦さ」を自分の感覚として経験するためには、横浜線か相模線に乗って、一時間以上延々とつづく平坦な土地を通過するのがよい。その時にぼくの中に起きることは、たんに「ぼくの感覚」だというだけではない、もっと根源的な何かで、おそらく、セザンヌがその風景画で掴もうとしていたのも、そのようなことなのだと思う。(例えば、坂道の傾斜を身体が感じるという時、そこには、たんに「ぼくの感覚」だけではない、そして、たんにその「地形」というだけでもない、感覚がたちあがるという動き=働きそのもの、何かが世界とともに、しかし世界から分離してたちあがるその瞬間、のようなものがある。それがセザンヌの斜めのタッチであり、空間の歪みである。あるいは、アラカワの傾斜であり、窪みである、と思う。)
最初は横須賀線あたりが面白そうかも。
●夕方六時過ぎ、喫茶店に行くために部屋を出る。日が長くなってまだかなり明るい。雨上がりで植物の匂いが濃い。すーっと飛んできて電線にとまろうとするスズメが、その一瞬前に、大きく羽根をひろげて空気の抵抗でふわっと減速して体勢を整えた、その瞬間がとてもかっこよかった。
●二つ並行している仕事、一方は、ほぼ四分の三を終え、最終コーナーにさしかかった感じ、もう一方は、これから山場にさしかかろうとする、山場にさしかかるための土台は出来た、というくらいのところ。ようやく、すこしずつ元気が出てきた。