●すばらしい天気。五月が終わって、ようやく五月の陽気と光がやってきた。こういう日が毎日のようにつづけば、ぼくはもっともっと良い画家になれるはずなのだが。しかし、こんな日は年に何日もないのだ。光の新鮮な午前中と、暖色が強くなりはじめた夕方、二回散歩した。その間には部屋でセザンヌの画集を観ていた。
初夏の光の下で生い茂る緑と、それが生えている土地-地形(つまり、光-天気と重力と地殻)。けっきょく、画家としてのぼくのモチーフは、それだけなんじゃないだろうか。ぼくの画家としての野心は、出来うる限りの精度、出来うる限りの深さにおいて、それを捉えたいということだけなのではないか。我ながら狭くてちっちぇー画家だなとも思うが、でもそれで十分なのではないか。
●例えば、初夏の光を受けている葉のその「緑色」を、キャンバスの上に絵の具で正確に再現したとしても、それはたんに視覚像として模倣しているだけで、そこから受け取った感覚(のすべて、その深さ)を正確に表現しているわけではない。それをするためには、オレンジと黄色と焦げ茶色とエメラルドグリーンの色塊を、しかるべきやりかたで画面に配置する必要がある、とする。この時、初夏の光を受ける葉の緑と、キャンバスの上の複数の色塊とを関係づけているのは、たんに「お前の主観」に過ぎないのではないか、という意見に、ぼくは論理的には反論することは出来ない。しかし、「そんなことはない」と確信をもって言うことは出来る。
●ぼくは別に、「私の感覚」を表現しようとしているのではないし、画家としての技術や才能を示そうとしているのでもない(勿論、それらは嫌でも「表現されて」しまうのだが)。例えば「初夏の光を受ける葉」の状態のすべてを、出来うる限り正確にキャンバスの上に翻訳したいと思い、それにはどうすればよいのか考えているだけなのだ。そんなことに何の意味があるのかと言われても、そんなのしらねーと答えるしかない。ただ、光や葉っぱや坂道が「そうしろ」って言っているのがオレには聞こえちゃうんだからしょうがねえだろ、と。