●久々に『マルメロの陽光』(ビクトル・エリセ)をDVDで観て、(画家としての)自分がこの映画から受けた影響の大きさをあらためて思う。この映画に出ている画家、アントニオ・ロペス=ガルシアのことはまったく知らないし(荒川修作横尾忠則と同じ年に生まれた人らしいが)、一点も作品を観たことがないので、あくまで、「この映画」からの影響なのだが。とはいえ、この画家は、植物をまず色彩で描き、ついで線によって描こうとするのだから、まるで自分のようだと思わざるを得ない。というか、自分の今の制作は、この映画を観たことよって前もって決定されてしまっていたのではないか、と。
この映画は、画家の制作のプロセスを記録しようというものではなく、絵画が描かれ、生まれる時間を捉えようとしたものだと思う。ラジオから、東ドイツの消滅や湾岸戦争による原油の高騰のニュースが流れるなか、画家は毎日、自宅の庭にある小さなマルメロの樹の前に立ち続ける。この映画は、1990年の九月の終わりから十二月の始めという明確な日付をもつが、「マルメロを描く画家」にとって、このような日付はどのような意味を持つのか。家は修理中で、常に移民の労働者が出入りしているし、学生時代からの友人である画家が遊びに来て昔話もする。つまり歴史的な時間があり、画家の人生の時間もあるが、「マルメロを描いている」時間は、そのどれとも重ならない。彼が描くマルメロは「今年のマルメロ」であるが、その「今年」の固有性は、1990年というような、あらゆる種類の時間を貫くメジャーとなる年号では表すことも捉えることもできない「今年」だ。
ぼくはよく知らないが、アントニオ・ロペス=ガルシアは国際的にも評価の高い有名な画家であるそうだ。しかし、絵を描くプロセスや時間は、その画家が有名だとか無名だとかに関係ない。キャンバスを組みたて、モチーフの前にイーゼルを立て、バレットに絵の具をのせる。この映画で捉えられるのは、有名な画家の姿ではなく、たんに「絵を描く人」の姿であり、「絵が描かれる」その時間である。おおくの画家、おおくの絵画は忘れ去られる。いや、忘れられる以前に、ほとんどの画家は人に知られないし、ほとんどの絵は、はじめからごく少数の人の目にしか触れない。それでも絵は描かれつづけるし、ほそぼそとではあっても、絵を描くという行為は伝承される。絵を描くという行為は、画家として成功するためになされるのではなく、たんに、良い絵を生み出すためになされる。そして、良い絵とは、その絵が内包する、描かれた時間の質によって決まる。何かをつくりだすことは、制作の時間のなかでだけ可能であり、そこで生まれる何かだけが、あるいは、それが生まれるためのモチーフとなる何かだけが、画家(描く人)にとっての現実である(もちろん、画家もまた、父であったり夫であったり、老人であったりするし、そのそれぞれに異なる「現実」もあるのだが)。重要なのは良い絵が(誰かによって)描かれ、描かれつづけるということであり、自分もその「誰か」たちの一員となれるように努力することだけだ。この映画がぼくに教えてくれたのは、そういうことだし、この映画によって示されるのは、まさにそのような(無名の、非人称的な)「制作の時間」なのだ(ここに出てくる画家のことをまったく知らなかったからこそ、このような観方が出来たのかもしれないが)。
アントニオ・ロペス=ガルシアは、一面で、視点を固定させ、遠近法的な作図法を徹底して用いる。しかし反面、遠近法的な作図を用いるには適当ではないくらい、モチーフや画面に近づいて描く。この、作図法の律儀さと、それを裏切るように異様な近さのかみ合わなさが、ぼくにはとても面白い。映画を観る限りでは(完成近くなって鏡で画面の状態をチェックする以外は)制作中は画面にもモチーフにも常に密着しており、離れて眺めることがない。遠近法的な作図法の徹底は、途中で離れて眺めないで済ませるためのものなのかもしれない。
あと、この画家は、ぼくが普通に考えるのとは逆の側にイーゼルを立てる。通常(しかし、もしかするとこれは日本の美術教育でだけ「普通」のことなのかもしれないが)、画家が右利きであるならば、視点とモチーフとを結ぶ線の右側にイーゼルを立てると思うのだが、この画家は左側に立てている。なぜ右側に建てるのが普通なのかというと、左側に立てると、視点とモチーフを結ぶ視線上に、描く腕と肩とがクロスする形で入ってきてしまうからだ。(ぼくは左利きだから逆なのだが)右側に立てると、モチーフに対してもキャンバスに対しても「身体を開く」感じになるのだが、左側だと、モチーフとの間に腕と肩がクロスするので、「身体が閉じる」感じになる(大げさに言うと、肩越しにモチーフを見る、感じ)。そして、このクロスによって、モチーフを見て、次にキャンバスを見る、という風に身体の軸の回転させる時、軸がぶれやすくなってしまう。
ぼくからみると、遠近法的作図法と、モチーフや画面への近さ、そしてイーゼルを左側に置くこと、の三つは、それぞれやっていることがかみ合っていないというか、バラバラの方向を向いており、矛盾しているように思うのだが、おそらく、この画家にとってそのかみ合わなさこそが、「絵を描く」という行為を起動させるために必要な何かなのだろう。こういうことが見られるだけでも、人が絵を描いているところを見るのは面白い。