●レンタルしていたDVDを返すだけのつもりだったけど、外に出たら雪が降っていたので、おーっと思って、そのまま二時間くらい散歩した。ただ、水っぽくて積もるような感じの雪ではなかった。だいたい、暖かくて雪のない冬だった年は、三月になってからいきなりどかっと大雪が降ることが多いので、まだこれから積もることもあるかもしれない。
●ツタヤに行ったら、『アキレスと亀』のDVDが出ていた。ぼくは画家として、どうしても、この映画については「受け入れ難い」という感情を消すことが出来ない。何かに惹き付けられ、それについて書いていたら、結果として批判になってしまった、というのなら分かるが、はじめからそれを「批判する」ために何かを書くということは、ぼくには不毛なこととしか思えない。しかし、(レビューの依頼があって)観てしまった以上、この映画の「受け入れ難」さについては、ちゃんと言っておきたいという気持ちがある。それは、作品としての出来、不出来以前の問題だとも言える。
作品というのは、決して冷静で客観的な「鑑賞」や「判定」の対象ではないと思う。良い作品に触れれば、興奮し、昂揚し、そそられ、惹き付けられ、ドキドキしたり、勇気や希望が湧いたり、意欲が駆り立てられたりするし、駄目な作品に触れると、本気で腹が立ち、あるいは落ち込んだり、気力が萎えたり、うんざりしたりする。この映画は確かに、北野武という人の「現在」の「空虚さ」を、ネガティブな側面から正確に写した自画像になっているとも言えるし、その点ではシンパシーを感じないわけではないのだが、しかしだからといって、それによって、この映画の「美術」の扱いに対して感じる「それはないでしょう」という気持ちが回収されるわけではない。
映画芸術」に掲載されたレビューを、あらためてここにも載せておきたい。


お母さん、あのね..../『アキレスと亀』(北野武)


画家のパトロンであり、画商のいいカモでもある、羽振りの良かった主人公の父親が、事業に失敗して、おそらく愛人だった芸者と心中する。二人は、どこかの旅館だかお茶屋だかの座敷で首を吊るのだが、その二人が首を吊っていることを示すショットの前に、一瞬、おそらく父親のものであると思われる白いコートがハンガーに掛けられ、吊るされている短いショットが挿入される。既に、父親が事業に失敗して追いつめられていることを知っている観客は、その、吊るされて、だらっと垂れ下がっている白いコートを見ると、どうしたって首つりを連想し、嫌な予感がふっとよぎる。そしてその予感が明確な形になるよりも一瞬早く、短いショットは途切れ、天井から縄状のものでぶら下がっている二人の人物が映し出される。この、あまりに的確なショットの連鎖を観て、ああ、やはり北野武は冴えている、と思って、そこまで、ほとんどいいところのなかったこの映画が、今後持ち直すかもしれないという微かな期待をもつ。
しかしその微かな期待は叶えられないままに映画は終わることになるだろう。本当になんにもない、観ていてひたすら心がむなしく、空虚になってくゆくだけの映画だった。北野武にはもう、映画を撮る必然性も動機も理由も衝動も全くないのに、世界の巨匠に祭り上げられてしまったから、仕方なく、ただ撮っているだけではないかとさえ感じられた。ところどころにはっとするような冴えた描写があるのだが、その、冴えがあるからこそいっそう、すべてがじらじらしくみえてしまう。


この主人公は、ただ画商に言われるまま、画商に言われた通りの絵を描きつづける。そもそも、この人物がなぜ絵を描きつづけるのか、というか、この人は本当に絵が好きなのかさえ、よく分からない。主人公は一体どういう絵が描きたいと思っているのか、どういう絵が好きなのか、そもそも本当に絵を描きたいと思っているのか、さっぱり分からないのだ。彼は、自分の描きたい絵に向かって求道的な探求を行うのでもないし、自分がどんな絵を描きたいのかということを探るために様々な様式を試すのでもない。自らの主張や欲望もなく、創意工夫すらなく、ただ、周囲の人物から言われるがままの絵を描くだけだ。つまりこの人物は、誰に理解されなくてもオレはこれをやるのだ、これが好きなのだ、という芯がまるでなく、ただひたすら周りの顔色を伺っているだけなのだ。
そもそもアーティストにとっての望みは、自分の作品が「理解されること」であって「売れること」ではない。勿論、売れた方がいいのは間違いないが、「売れること」は「理解されること」の後からついてくるものだろう。だがこの人物はただ「売れること」「有名になること」しか考えていない。画商から示された新聞記事のモノマネをして、商店街のシャッターに落書きしたあげく、「これ全部描けたら有名になれたのにね」と妻から言われ、「あいつらは芸術を分かってないんだ」と呟くこの人物の「芸術」にはまったくその内実がない。端的に言えば、この人物が望んでいるのは、家が金持ちだった幼い頃に、お坊ちゃまとして、何をしても周囲からちやほやされた、その状況が再現されることだけなのだ。彼が絵を描きつづける動機は、たんにその頃に絵を描いてみんなから褒められたという記憶があるからで、その状況が、今、ここでも再現されて欲しいという、それだけのことなのだとしか考えられない。彼は「理解されたい」のではなく、たんに「ちやほやされたい」のだ。画家から渡されたあの臙脂色のベレー帽は、そもそも画家のおべんちゃらであり、内実のない「ちやほや」の徴でしかない。
だから、作品はちやほやされるための手段でしかなく、その質や内実は問われない。この映画に出て来る膨大な数の「作品」たちのあまりの質の低さ、スカスカさは、それを観続けているだけで、次第に鬱々とした気持ちになってくるほどのものだ。あるいは、その芸術談義、「写真もコピー機もあるから写実はいらない」とか「飢えた子どもはピカソとおにぎりのどちらを取るのか」等々の薄っぺらさには、失笑することすら出来ない。あげく、芸術家志望の青年たちを(物語上とはいえ)、簡単に殺したり、自殺させたりするのをみると、怒りさえこみ上げてくる(つけ加えれば、ここでの芸術家志望の青年たちの演技の酷さと、それを制御出来ない監督の演出の放棄は、この芸術家志望の青年たちに、つまりは「芸術」に、監督がほとんど興味のないことのあらわれではないかとさえ感じてしまう)。


しかし主人公は、幼い頃に自分がちやほやされていたのは、家の経済力のためであり、その幸福が内実のないおべんちゃらでしかなかったこともまた、身に染みて知っていることは確かだ。家が破産し、父は自分を置き去りにして死んでしまい、周囲の人々の態度ががらっと変わった後も、変わらずに彼に優しく接したのは、母と家にいた女中の二人だけだった。つまり、彼が絵を描くことを通じて得たいと思っている「ちやほや」は、母性的な女性からの全面的な肯定としての愛情で、その希求だけは切実な強さをもつ(だから、彼にとって唯一の内実のある絵は、布団置き場の壁に描かれた、母の死に顔の絵であろう)。預けられた家でもまた彼は絵を描きつづけるのだが、それは彼が絵が好きな子どもだからではなく、その家のおばさんに対する「甘えさせてくれ」というアピールであり、事実、「あの子に絵を描かせてやろうよ」と言うのは、その家の妻である女性なのだった。彼にとって絵を描くことは、どんなに困難な状況でも、そこに「母親」を出現させるための技法(魔法)のような意味をもっている。絵さえ描いていれは、ただ黙ってうつむいているだけで、女性が寄って来る。だから彼は決して女(母親)には不自由しないだろう。
そのような意味で、「わたしなら彼の芸術の理解者になれるかもしれない」と言う彼の妻は決して「理解者」ではない。理解者とは作品を判定する者でもあり、それはちょっと方向がズレてるんじゃないかとか、これはあまりよくないんじゃないかとか、時には批判的なことも言うはずだが(だからむしろ、二度と彼のモデルはやらないというカフェの店員の方こそが「理解者」であるのかもしれないのだが、そもそも彼は理解者など望んでいない)、彼女は、彼のやることは無条件ですべて肯定する。そもそも彼女は、彼の芸術などはじめから理解する気はなく(そもそもそれは「理解」に値するものではない)、ただ、彼のすることの全てを肯定しようと決意した者、であり、それこそが彼(の不幸な記憶)が切実に求めているものだ。
だから本当は、この妻を得た時点で、彼は絵を描く必要(切実さ)がなくなったと言える。正確には、彼にとって絵を描くことの意味が変わった、ということか。それは、女性の気を引き、母を出現させる切実な技法から、お母さんと一緒の幸福なお遊戯になったのだ。重要なのは、お母さんと一緒に遊ぶことであり、「いい子、いい子」といって頭を撫でてもらうことなのだから、出来上がる作品の質など、はじめからどうでもいい。最初は美術学校の生徒たちとも一緒に遊んでいたのだが、はしゃぎすぎてハメを外し、人が死んでしまったので怖くなってママのところに戻って、あとはずっとお母さんと一緒に遊ぶのだった。
しかし、妻=母との遊戯でもまたハメを外した主人公は、妻とも別れることになる。一人になった彼は、娘のところへ「絵具代を貸してくれ」と会いにゆくのだが、これもまた、娘に対して「母親になってくれ」と言っているのと同じだろう。娘が死んだことで、再び妻=母に会うことの出来た主人公は(娘が死んだにもかかわらず)、思わず嬉しくてはしゃぎ過ぎてしまい、怒った妻=母は去ってしまう。一人になってすっかりしょげた主人公は、やけを起こすのだが、最終的にはお母さんはちゃんと戻ってきてくれる。ラスト近くの樋口可南子のクローズアップは、まさにお仕置きの後のお母さんの笑顔で、ラストは、お母さんに連れられて家に戻って行く子どもそのものだろう(おっさんではなく「子ども」であることを強調するために、包帯でぐるぐる巻きになっている)。