●昨日のトークで思ったのは、例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカ(の話は出来なかったけど)の作品とマティスの作品では、それがつくられた状況や条件も、技術やスタイルも、そして主題も異なっているけど、そこには明らかに「良い絵」として共通した何かがあり、絵を描くことはその何かを目指してなされる行為なのだということ。そしてその何かは、まったく形を変えてであっても、カッツにもムナーリにも誰が描いたかわからない中国の古典絵画にもあり、そして(トークで最年少だった)郷正助にも、その背景や地域や時代を越えて、ある。だから画家であることとは、とても古くからある「絵画」という信仰の時空なかで生きることなのではないか。
(信仰が、教会という権威-権力によって伝達され、維持され、その覇権闘争と不可分であるように、絵画もまた、芸術という権威、制度によって維持されているという側面は無視できないとしても、そこで生きられる信仰の内実そのものは、決して権威によって支えられるものではないはずだと思う。)
こういうことを言うと、きっと反動的だとか言って笑う人がいっぱいいると思うけど、それはそれでいいと思う。そういう人には見えていない、現在とは異なる時間の流れがあり、少なくとも制作している時は、その別の時間のなかにいるわけだから。それを必要としない人に、それを「分かれ」と言っても仕方がない。
だが、そうは言っても、同時に、それを笑う人と共通した現在のなかに生きてもいるのだから、現在を無視することは出来ないし、「笑う人」と対立しているというわけでもない。一部分は共有出来るけど、別の一部分は共有出来ない、というだけの話だ。絵画だって、片足は「現代」の方に置くしかないわけだし。絵画を信仰する人の陣営と、それを笑う人の陣営があるのではない(すぐに陣地-配置を決めて敵味方を分けようとする、そういう雑な分割こそが「敵」なのだ)。一人一人が、ある部分は他人と共有出来たり、別の部分は出来なかったりする、それぞれに違ったあり様での、分裂した複数の異なる時間・空間の混合を生きている、ということで、そのうちの一つとして絵画という信仰がある、ということだ(それぞれの複雑な混合を分かり易い図表上の配置へと均そうとするのがマチズモであり、それには抗する必要がある)。
信仰とか言うと、閉じているとか言われるかもしれないけど、それは間違っている。何万年も前から、細々とではあっても現在まで続いており、そして、今もなお、きわめて少数ではあっても、それをしようとする人がいる、ということが、この信仰が開かれていることの何よりの証拠だと思う。
(すべてを俯瞰的に把握しないと気が済まないマッチョな人が、たまたま自分が理解出来なかったり、アクセス出来なかったりするものを「閉じている」と言って非難するのだと思う)。