08/04/28

●この世界には、セザンヌを分る人と分らない人がいて、そこには広くて深い溝があるんじゃないかと、最近つくづく思う。例えば、美術手帖の座談会で会田誠さんと話した時、会田さんはしきりに「自分には抽象絵画が分らないんだ」ということを言っていた。これは、半分は会田さんの「日本の抽象画」のドメスティックな特殊性みたいなものに対する、挑発を含んだ批判的立ち位置を示している発言なのだが、それと同時に、おそらく本当に、素朴に「分らない」と言っているのだとも思った。そして、抽象画を分らないというのは、要するにセザンヌが分らないということなのだと思う。
例えばゴダールは、確か『映画史』のなかで、映画は印象派を引きづく古典的な(19世紀的な、だっけ)芸術なんだということを言っていた。そこでゴダールが意識しているのはマネであって、けっしてセザンヌではない。おそらくゴダールは、セザンヌに本当の意味での興味はなく、理解もしていないと思う。おそらくそこが、ストローブ=ユイレとの決定的な違いなのだと思う。勿論それは、どちらが偉いという話ではないが。でも、映画が好きな人の多くは、マネには興味があっても、セザンヌには興味がないように思える。(勿論、マネとセザンヌには連続性があり共通性があるけど、マネからセザンヌへは、色彩や筆致の在り方において、絵画の存在形態において、決定的なジャンプがある。)おそらく現在、美術に興味をもつ多くの人も、マネならばすんなり理解出来るが、なぜセザンヌがそんなに持ち上げられるのか理解できないという感情をもっているのではないだろうか。
でも、セザンヌというのは彼抜きには絵画というものがそもそも考えられないような大きな存在で、絵画と(表象と、表現と)世界との関係の在り方に、決定的な何かを刻み付けている。それは、たんに絵の具とキャンバスでしかないものが、どうやって世界全体と触れ合うことが出来るのか、ということに関することだ。それは何も、セザンヌだけが孤独にそうだということではない。それは大きく言えばルネサンス以降、現在までの広義の近代絵画の全てにおいて中核的な問題が、セザンヌにおいて最もはっきりと容赦なく露呈しているということなのだ。だから、セザンヌさえ理解できれば、ルネサンス以降現代までの絵画の中核はほぼ掴めたということだし、逆にセザンヌが分らないというのは、ルネサンス以降の絵画を、その表面的なイメージの変遷としてしか捉えていないということなのだ。(ポストモダン以降の美術は、まさにセザンヌを理解しないということによる「自由」、セザンヌの抑圧からの「自由」のなかで展開されているように思う。それは、ルネサンス以降の広義の近代が完全に終わったということなのかもしれないのだし、そのようなものを頭から比定するつもりもないけど、ただ、ぼくにはそのような意味での「自由」は必要ない。)
多くの人は、ことさらセザンヌを持ち上げるようなタイプの人は、むつかしい理屈をこねて人を見下し、自分の優位を保とうとするような人なのではないかという感じを持っているのではないかと思う。(例えば会田さんはあきらかにそういう風に感じているのだと思った。)あるいは、モダニズムやハイアートを持ち上げる、一種の贅沢品としての文化-教養主義的な人なのだと。セザンヌに興味がない人に、無理にセザンヌを分かれとは言わないし、セザンヌを分からない奴は駄目だなどという思い上がったことを言う気もないけど(その人にとって何が重要かというのは、全く人それぞれなわけだから)、でも、それは全然違うのだ、ということだけは分って欲しいと思う。少なくとも美術という領域においては、セザンヌ以上に強烈で、セザンヌ以上に気が狂っている人は、セザンヌ以降には一人もいないと断言してもいい(と、ぼくは思っている)。それは現在地点においても、今あるどんなアート作品よりもずば抜けて強い力をもっている(と、ぼくは思っている)。少なくともぼくには、「本当に」そう見えているし、「本当に」そう思っている。(それはぼくの立ち位置とか主義主張とか利害関係とか、そいういレベルのことではない。それがぼくの「症候」であり「外傷」であり「信仰」であるということなのかもしれないのだが。)
少なくともぼくにとっては、絵を描くというのは繰り返しセザンヌを参照するということであり、セザンヌ抜きの絵画史というのは考えられない。それは絵画史のなかの任意の一点ではなく、セザンヌの作品は絵画というものの本質の一部として組み込まれており、決して切り離せない。絵を描く以上どうしたってセザンヌを無視できない。セザンヌを、たんにモダニズムの象徴だとか権威として片付けようとする人は、その作品が突きつけて来るものを正面から見ようとしていないだけだと、ぼくには思われる。別にモダニズムとか、そんな文脈なんてどうだっていいし、場合によっては寝返ったっていいけど、セザンヌに忠実であることだけは外せない。
ぼくだって、「セザンヌを見た」というトラウマ的な経験さえなければ、何と言うか、現在のアート界の世界水準を見据えて、そこでの自分の立ち位置を考えた、戦略的な作品展開をすることも出来たかもしれない(それで成功出来るかどうかは、当然、全く別の話だが)。でも、セザンヌを見てしまった以上、自分の短い人生と限られた能力のなかでは、そんなことをやっている余裕などないのだ。
人はそれぞれ、自分の持つ資質や能力や身体や立ち位置からみた、それぞれの興味と関心と利害のなかを生きるしかないのだから、全ての人にセザンヌが理解されるべきだなどとは思わないし、そもそもそんなことあり得ない。セザンヌに興味がないとかセザンヌなんか嫌いだという人でも、その人が面白い人やいい人なら是非友達になりたい。でも、作品に裸で向き合わずに、セザンヌなんて、教科書に載っているような古い絵を描く昔の人でしょ、というような、粗くて雑な「位置付け」で作品や作家を処理できると考えているような人は、軽蔑する。