●それにしてもマネの「笛を吹く少年」はすばらしかった、と、その感触を反すうしている。この作品はぼくが好きなタイプの絵画ではないし、影響を受けてきたようなタイプの絵画でもない。そうだとしても、圧倒的にすばらしいことを認めないわけにはいかない。
あえていえば、マティスに近いところはある。色彩を明暗から解放することで、絵画を平面化する、その大胆なやり方において。ただ、マティスと決定的に違うのは、マネにおいては、たった今、あらわれたイメージが、そのあらわれたままの新鮮さのまま、ずっと持続している、という感じで、つまり「時間」がない。この感じは一般に「瞬時性」と呼ばれているけど、とはいえ、マネの絵だって、そのすべてが一挙に現れるというわけではなく、いくつもの細部が、それを観る側の注目の変化に従って継起的にあらわれることにかわりはない。しかしその、様々な細部の継起的なあらわれが時間を構成しないというか、ある静止性というか、不動性をもって、自身のイメージを持続させているように組み立てられているのではないか。どんな部分的な細部も、たった今そこにあらわれたという新鮮さにおいてありつづけるから、この細部から次の細部へと視線が継起的に移り変わっていっても、イメージの「瞬時性」の印象がずっと保たれて、時間が流れた感じがしない(時間の外にあるという感じになる)、のではないか。複数の細部が「時間」とは別の形のネットワークをつくる。常に、今生まれたばかりでありつづけることによって、時間のなかで、時間を消してしまう、という感じ。
マネの絵は確かに「明るい」のだけど、その明るさは光(明暗)を大胆に無視して「色(固有色)」を生かすこと(明暗は、まったく無視されるわけではないが、その効果はほんの僅かしか採用されない)によって実現されているのだから、光を追いかける印象派の明るさとは(たとえ、筆触の感じが似ている作品があるとしても)もともと相いれない。明暗を無視して「色」として捉えられるからこそ「明るい黒」が可能になる。その感じはむしろポスト印象派に近い。しかし、ポスト印象派とも決定的に違うのは、マネは物(対象)を描写するのがとんでもなく上手い(というか、描写がすごく洒落ている)ということと、あくまで対象の描出によって絵画を成り立たせようしているところだろうと思う(マネの色彩はあくまで「固有色」であるという点で、ポスト印象派マティスとは異なる)。洒落ているというのはつまり、イメージを、それがたった今あらわれたという新鮮さにおいて描写することができるということだ。
出会いがしらに瞬時にたちあがり、その鮮やかさを持続させつつも、それ以上の深い関係をもつことはできないものとしての、イメージ。「笛を吹く少年」や「オランピア」などの、とりつくしまもない瞬時性に比べれば、マラルメベルト・モリゾの肖像、あるいは静物画などにおいては、イメージが一瞬の揺らぎを含む程度のわずかな時間性はあって、そこに何とも言えない表情とやわらかさが宿るのだけど(そっち系の集大成として「フォリ―・ベルジェールのバー」があると思う)、いずれにしても、イメージが、触れることの出来ない純粋に視覚的なものとして現れている感じは、クールベのような物質的なリアリズムとも違うし、セザンヌのように存在に迫ってゆくような感じとも違う。よく言われることだけど、ボードレールによって表現されるような、都市の街角ですれ違う時に一瞬だけあらわれる無名の美女の幻惑、のようなものとしてのイメージだと言える。
モダニズムにおいて最も重要な画家はマネとセザンヌだとぼくは思っていて、そしてぼくは自分をセザンヌ系だと思っているのだけど、考えてみれば、現代絵画では、セザンヌ系はほとんど生き残っていなくて、基本、ほとんどがマネ系なのではないか。現代の具象絵画の「描写」のあり様は、例えばクールベセザンヌの系列ではまったくなくて、あきらかにマネの系列であるように感じる。例えば、リュック・タイマンスの描写というか、イメージの出現のさせ方の、あのコジャレた感じのルーツは、マネにあるのではないか。というのも、オルセー展に展示してあった「ジョルジョ・クレマンソー」を観て、これ、リュック・タイマンスじゃん、タイマンスがもう既にここにいるじゃん、と思ったのだった。今回、展示されているわけではないけど、例えば「バルコニー」に描かれている人物の顔の、あの、描いてあるのかないのか分からないのっぺりした感じの、それでいて「顔」が生々しくあらわれているあの感じこそが、多くのすぐれた現代の具象絵画のイメージのあらわれ方に近いのではないか、と思ったのだった。
これから先は半分こじつけのような感じなのだけど、例えば「オランピア」で、神話の女神ではなく、ありふれたリアルな娼婦の裸を、トランプの絵のようにのっぺりと平面的に描きだそうとする露悪的な作品の元ネタとしてティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を下敷きにするという、美術史に対する挑発とも言えるやり方は、デュシャンが「モナリザ」の複製に髭を描き込む行為と、どこか通じるものがあるのではないか。あるいは、「マクシミリアン皇帝の処刑」で、現実の事件を綿密に取材して、それに基づいて制作を行いながらも、そこから劇的要素を排除して、イメージをまるで薄っぺらな書き割りのように構築するというやり方は、ブレヒトや、ストローブ=ユイレなどの、左翼的(異化的)前衛リアリズムに通じるところがあるのではないか。さらに、確かゴダール「映画史」のなかで、マネこそが映画を発明した、とか言ってなかっただろうか。
(そういえば阿部良雄が、七十年代に書かれた本で――確か『群衆の中の芸術家』だったと思う――マネの作品の情報論的側面について触れていたような記憶がある。)
こう考えるともまさにマネこそが現代芸術の源泉であるように思われてきて、セザンヌ派としては、どうも分が悪く肩身が狭い感じになってくるのだけど。
(追記。誤解されるような書き方になってしまってるかもしれませんが、今回のオルセー展で観られるのは「笛を吹く少年」であって、「オランピア」や「マクシミリアン皇帝の処刑」、「フォリ―・ベルジェールのバー」、マラルメベルト・モリゾの肖像などが観られるわけではないです。)