国立新美術館でオルセー展を観た。今日はあまり時間がなかったので、全体を観るというより、とにかくマネだけをじっくり観るという目的に、最初から絞っていた。
マネ、すばらしいな、という、ベタな感想。「上手い」「新鮮」「才能」「冴え」という言葉が次々に浮かんでくる。イメージが、たった今、ここで生まれたという瞬間が定着されているという感じ。150年近く前に描かれた絵が今でもなお保っているこの「鮮度」は何なのだろうかと思う。ある意味、自分の才能を鼻にかけているような絵にも見えるのだけど、でも、ここまですごい才能なら、もう、どんどん鼻にかけちゃって、という感じ。
「笛を吹く少年」の「とうだ」という感じ。「どうだ、これを観てみろ」「どうだ、これが絵だろ」「どうだ、ここに絵があるだろ」、と言われ、「いや、ごもっともです、すばらしいです」とひれ伏すしかない感じ。簡潔にして的確、これ以上何かを足す必要はないし、ここから何も差し引くことは出来ない。しかも、なんとも言えない色気というか、気品と言うか、表情がある。このような誉め言葉は手垢のつきまくった、陳腐な紋切り型そのものだけど、「笛を吹く少年」という絵があることによって、これらの言葉にもちゃんと内実があるのだということが知れる。
「読書」に描かれた、あの様々な布たち(衣服、カーテン、ソファのカバー)の描写のすばらしさ。「なっ、絵画において描写っていうのは、こういうことだろ」「いや、おっしゃる通りです、本当にその通りです!」という感じ。鮮やかで、冴え冴えとして、軽快で、的確で、気品がある、と、またもや紋切り型の賞賛の言葉。
すばやく描き、すばやく仕上げること。筆致とイメージとのズレではなく、そのきわめて正確な一致。セザンヌにとっては永遠に追いつけなかった地点に、マネは易々と、はじめから既に到達している感じ。しかし、そうであることによってマネのイメージには「深さ」がなく、映像的であるとは言える。だけど、そうであるにもかかわらず、その早くて薄いイメージの驚くべき冴え冴えとした新鮮さと、そこから漂ってくる繊細で魅力的な(貴族的な、と形容したくなる)気品や表情がある。
マネは、画家としてのキャリアの割合とはやい時期に既にマネであることに到達していて、それからずっとマネでありつづけたと言えるのではないか。そのような意味で、クールベ印象派、ポスト印象派セザンヌといった系列にある、形式的な探求、決して到達できない地点へ向けて探求をつづける、という感じはない。「笛を吹く少年」は、既にそれとして絵画の一つの完成形であり、そこから先へは、どこにも行きようがないとも言える(その脇から抜けてゆくことで別の地点――マティスのような――への開けがある、ということは言えるとしても)。
それ自体として完璧に完結していることによって、「永遠になされつづける探求」というような「近代的モード」から外れつつも、作品のもつ感性としては、まさにこれこそが「近代絵画」である、というような感覚を生み出しているという、不思議な逆説がマネの絵にはあるように思う。
(「草上の昼食」や「オランピア」などに観られるように、マネには、純粋な形式的な探求という「表モダニズムモード」というより、様々な文脈のイメージからのサンプリングと社会的スキャンダルの利用というような、シュルレアリスムに近い「裏モダニズムモード」的な感覚に親和性があり、マネの展開-探求はそっちの方向においてなされたようにも思うけど。でも、作品そのものの形式としては、表モードとしての完成度がとても高いものだと言える。例えば、「笛を吹く少年」という作品は、過不足のない「それがそこにある」という感じ、イメージが現れる「その瞬間」が定着されているという感じにおいて、ニューマンの作品と近いとも言える。)
マネの作品はそれ自体で過不足なく絵画であり(「どうだ」という感じ)、だから、マネはマネであることを反復し、絵画は絵画であることを反復する。この感じが、後の、メディウムスペシフィックな絵画や、絵画は絵画であることによって絵画であるといったトートロジー的な絵画へと通じる「感覚」へと繋がり、それを正当化するための理由として使われたのだと思う。しかしマネには、形式としてはそうだとしても、主題としてそこからズレてゆくところ(サンプリングと合成、社会的なスキャンダル)があったように思う。ただ、今回の展示ではそのようなマネの側面は見られないけど。