●昨日引用した「問題」のお金の流れを図に描くと、下のようになる。こうなるともう、謎もなければ、複雑さもなく、間違えようのない小学校低学年レベルの算数にみえる。



しかし、こんな単純な構造から、大人をも幻惑させてしまう「物語」を組み立てることができるのだ。ポイントは、最初に支払った30ドルと、結果として支払った27ドルと、ボーイがちょろまかした2ドルとの三者の間に「関係」があるかのように思い込ませるような、話の誘導(経路・積み上げ)の仕方にあった。27ドルと2ドルに対して対応関係があるのは、ホテルの主人が受け取った正規の価格25ドルの方であり(25+2=27)、最初に支払った30ドルとの間に対応関係があるのは、結果的に支払った27ドルと戻ってきた3ドルの方である(30−3=27)。なのに、支払いと受け取りという「異なる系列」にある二つの因果関係を意図的にごちゃごちゃにして、ありもしない関係の幻影をつくりだすことで「1ドル」を消してみせる(27+2=30−1(?))。
だが、構造を図にしてみるだけで、このような詐術はいっぺんで見抜かれてしまう。しかしそれは、逆から考えると、物語の構造分析によってでは、その物語が人を幻惑させる要素(つまり、その物語の「面白さ」)は抽出できないということでもある。図からは「幻惑」が消えている。面白さが、構造にあるのではなく、誘導の仕方(による効果)によって生まれるとすれば、構造分析は、物語から「面白さ」という重要な要素をザルのように流して消失させてしまう、ということになる。
構造には時間が欠けていて、順序、積み上げ(切り崩し)、段取り、展開、動きなどが記述できない。つまり、語りが、語りそのものの基底の変化や、語りを受け取る者の認識の変化とともにあることが、記述できない。語りの基底面にいる者にとっては、物語の全体構造は、それが終わった地点に着くまで見ることができない。上の図は、問題文をすべて読み終えた後でしか描けない。しかし、物語は、それを読んでいる間にこそあり、その間(過程)に生まれる認識の変化や揺さぶりが幻惑を生むのだ。
●構造(地図)と経路。ここで唐突に松野孝一郎(内部観察)を思い出すことも出来る。進行しつつある物語のなかにいながらも、その物語を律しているであろう構造を暫定的に想定することを、松野の言う「予期」と考え、物語を構成する個々の要素が1、2、3、4…と実際に進行・時間発展してゆく具体的経路を「因果」と考えるならば、物語の基底面にいて語りを進行している者、あるいは、語りの進行に並走するようにその語りを聞く者において起こっていることがらとは、予期と因果とが常に同時に立ち上がり、その分離(ズレ)と統合(調整)とが常に行われ続けている場(作用の内部)にいる、ということになるのではないか。だとすれば今度は逆に、物語はたんに「経路」のなかだけにあるというわけにもいかなくなる。物語は、予期と因果との間にある統合作用(分離と調停)として生起する、ということになる。
●以下は、昨日引用した「問題」。
《三人の男がホテルに泊まることになりました。
ホテルの主人が一泊30ドルの部屋が空いていると言ったので三人は10ドルずつ払って一晩泊まりました。
次の朝、ホテルの主人は部屋代は本当は25ドルだったことに気が付いて、余計に請求してしまった分を返すようにと、ボーイに5ドル渡しました。
ところがこのボーイは、「5ドルでは三人で割り切れない」と考え、ちゃっかり2ドルを自分のふところに入れ、三人の客に1ドルずつ返しました。
さて、三人の男は結局部屋代を9ドルずつ出したことになり、計27ドル。
それにボーイがくすねた2ドルを足すと29ドル。
残りの1ドルはどこへ消えてしまったのでしょうか?》