●お知らせ。アートプログラム青梅2011(10月22日〜11月27日)というイベントに参加します。期間中、青梅市立美術館に作品が展示されるのと、10月22日のシンポジウムにパネラーとして出ます。
http://www.art-program-ome.com/
●人はそれぞれ、もっとも敏感に(あるいは過敏に)反応する地点が異なる。そして多くの場合、すれ違いはそこに起因すると思われる。同じ言葉を喋っているようでいて、その言葉が構成される基底面というか、言葉を組織する核の位置が異なっている。「同じ言葉」を喋っているからこそ、そのズレが見えにくくなる。
例えば、ものの感触、肌触り、色、雰囲気などに反応する人、意味や物語や形態や価値に反応する人、そして、配置や形式や構造に反応する人、とか。一つめの人にとっては、目の前にあるものの手触りこそが具体的なものなのだが、三つめの人にとっては、形式や構造こそが生々しく具体性をもって感じられ、形式の手触りのようなものを感じている。とはいえ、一つめの人と三つめの人とは割合理解し合いやすい気がする。いや、理解はできないとしても仲よくはしやすい。でも、一つめ、三つめの人と、二つめの人とが分かり合うのは、なかなか困難なことであるような気がする。一つめの人にとっても三つめの人にとっても、二つめの人は具体性に欠けるように感じられ、二つめの人にとっては具体性とはたんに個別性(個別例)でしかなく無価値に感じられるから。しかし、二つめの人同士では、仲よくしたり(社交の一種として)ケンカしたりするのが、最もしやすいのではないかと思う。つまり二つめの人が最も社会性あるいは社交性に優れているのではないか。そしておそらく数も最も多い。
勿論これは極端に単純化した話で、多くの人はこの三つのどのレベルにも反応する。ただ、どこに最も敏感であるのか(あるいは、どこに最も強く引っ張られているのか)という傾向(分布)の話。
それに、この分類には「動き」という要素が抜けている。例えば、形式の組み換えがマテリアルな手触りを変化させ、マテリアルな手触りの変化が形式の組み換えを促す、というような。あるいは、起点がずれているのに「同じ言葉」になってしまうという、「言葉」というメディウムによる混乱・混同が、何かを動かすきっかけとなるかもしれない、とか。