●もうちょっとだけペンローズ=茂木について。以下はほとんど科学とは関係のない思弁です。
●一方に古典物理学があり、それはアインシュタインによってほぼ完成され、それがフォローするマクロな範囲ではほぼ完全に宇宙の振る舞いを説明する。もう一方に量子力学があり、それはそれで、ミクロな範囲に関してはこの宇宙の振る舞いをほぼ完全に説明する。しかし、両者を架橋するためには「波動関数の収縮」という過程が必要であり、そこで「観測」というある種の主観性が、宇宙の客観的な描像のなかに紛れ込んでしまう。
それは逆に言えば、観測という主観性を、あるいは確率的にしか言えないというランダム性を、受け入れるならば、差し当たり何の問題もないとも言える。つまり、記述性、操作性、無矛盾性を問題とするならば、特に問題はなく、そこに問題が生ずるとすれば「世界観としての科学」としての問題だ、ということになるだろう。
ペンローズはそこで、波動関数の「客観的な」収縮を考え、観測やランダム性を排し、同時に、二つの物理学のクリティカルポイントであるその点にこそ、意識の発生の「客観的な」根拠を見ようとする(その根拠を「異なる時空構造間の歪みの重ね合わせ」に見出すというアイデアは、美的な意味でとても面白い)。ここで意識とは、「私の自意識」のようなものであるというより、宇宙自身が宇宙を知ろうとするという意味での自意識=知性ということになるだろう。だから、非計算的な知性とは、自己言及を燃料とする自己超出というようなイメージであろう。「自己言及を燃料とする自己超出」エンジンが、宇宙のなかで自動生成される客観的な根拠、というような。
おそらく、「波動関数の収縮」という二つの物理学の架橋時に生じる、観測問題やランダム性を受け入れる(コペンハーゲン解釈)ということは、記述上の問題である以上に、それらを受け入れることで「意識」というやっかいなものを物理的体系の「外」に置いておけるということではないだろうか。意識の客観的な根拠を問うということは客観のなかに主観を埋め込むということで、しかしそれは、客観を主観によって汚すことにもなり得る。ペンローズはそれを、おそらくとても性急で乱暴な(そして魅力的な)やり方でやろうとしているのだろう。そんなことをしたら科学ではなく哲学や宗教になってしまう、というのが大方の科学者の反応なのだろう。そしてきっとそれは正しいのだろう。だとしても、そのような「嘘」が科学の発展に寄与することもあるはずだと茂木健一郎は書く。
●そしてそのようなペンローズの議論に茂木健一郎が惹かれるのにも必然性があると思われる。斎藤・茂木の往復書簡のなかで斎藤環は、茂木健一郎を単純な物質主義者(脳によって意識は説明できる)でありクオリア信奉者(「私のこのクオリア」は絶対的なものだ)であると決めつけているみたいな感じで、それに対して茂木は、科学の世界における物質主義や形式主義の「強さ」を知らなければ、クオリアという現象がいかに驚くべきことなのかをなかなか理解してもらえないのかもしれないと書いている。
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/
書簡で斎藤環は、あたかも茂木健一郎量子力学に素朴に反発しているかのようにも書いているが(科学者なんだからそんなはずないと思うのだが)、昨日引用した部分からも明らかなように茂木は、量子力学が成立するためには、量子力学それ自身だけでは見えないような「その外」が必要であり、それを問うことが必要だと言っている。
ペンローズがていした疑問とは、こうです。そもそも、基底ベクトルの取り方は任意のはずだ。三次元空間を記述するのに、(x、y、z)という座標系をとっても、それを回転させた(x'、y'、z')という座標系をとってもどちらでもかまわないように、本来は、ある特定の基底ベクトルのセットが特別な意味を持たなければならない理由はない。》
《猫が「生きている」状態と、「死んでいる」状態が複素数で結びつけられた、混合状態が複数あり、それらが基底ベクトルのセットになったとしても、等価なはずだ。それなのに、波動関数の収縮の先は、猫が「生きている」、あるいは「死んでいる」状態になる理由はなぜなのか? その理由は、「コペンハーゲン解釈」のような標準的な量子力学の体系の「外」から与えられなければならないはずです。》
宇宙の振る舞いのほとんどすべてを説明するかのような強力な体系があり、しかし、その体系が内破してしまいかねない危険なポイントがある。そして、そのポイントから、体系そのものを可能にしている、体系には含まれないその外の広がりが予感され、その重要性が感知される。そして、おそらく茂木がクオリアと読んでいるものに、体系の強さに拮抗し得るほどの、その外へと通じている何かしらの通路が予感さているのだろう(これが単純な「実感主義」でないことは明らかだ)。『ペンローズの<量子脳>理論』で、茂木や竹内薫が、計算可能性を形式・文法論に、計算不可能性を意味論に結び付けていたことからも、これは明らかだと思う(対角線論法は「意味論」にかすっている、とか)。
ただそれでも、ぼくには、ここですぐに「意味(あるいはクオリア)」と言ってしまう点がちょっと弱い気はする。これはある意味、ある時期の柄谷行人の議論にとても近い(『内省と遡行』から『探求1』へ)。形式化の徹底→その内破→他者や外(具体的な交換・交通)の導入みたいな流れはあまりに哲学的だし、哲学としても古いと思う。「クオリア」って言われても、いきなり「暗闇への跳躍」とか言われてる的な。
おそらく、体系や形式というものの捉え方そのものもが変化してきているように思われる。形式=物質(構造)=現象(出来事)=リズムというような描像が、芸術的にも、そしておそらく科学的にも(非線形科学や複雑系など)、可能になってきている時、「形式」から、その外としての「意味(クオリア)」へ、という流れよりは、少なくとももっと解像度が上がっているように思われる(勿論、それを茂木健一郎が知らないはずはない)。しかし、かと言って、形式=物質(構造)=現象(出来事)=リズム=意味(クオリア)という風にはすんなり繋がらないとも思うのだけど。おそらくこれは、ネットワーク(形式=物質(構造)=現象(出来事)=リズム)と結節点(意味・クオリア)という問題にも書き換え得る。
茂木健一郎クオリアにこだわることと、例えば西川アサキが中枢にこだわることとは、とても親近性があると思う(ここで、「システム=形式=内」と「中枢=クオリア=システム外」の間に「萌芽的中枢」というイメージが描かれるのはとても重要だと思う)。それは、意味や主体性のような(いわば常識的な)問題を、簡単に無しにして済ませることは出来ないが、しかし、今までと同様な描像で描きだしていたのでは全然ダメなのだ、ということだと思う(意味とかクオリアとか主体とか言う前に、萌芽的中枢について具体的に考えることが出来る、これはやはりすごく大きいことだと思う)。