●夕陽がすごいよというメールをもらって外に出て、おーっと思って写真に撮ろうとしたら携帯の電池が切れた。
●前に、神林長平の小説について、提出されている問題とその解答が食い違っているのではないかというようなことを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120806
●一方に、「わたし」という存在が、他でもない唯一の存在として、いま、ここという時空構造と一体となって成立しているという出来事があり、もう一方に、そこで成立している「わたし」が、どのような構造をもつ世界のなかにいて、その世界に対してどのような働きかけが可能なのかという(意識化されたものも意識下のものも含めた)地図や見取り図(認識)が成立しているという事がある。仮に、前者をパースペクティブと呼び、後者を世界観と呼んでみたのだが、そのような呼び名が適当であるのかはわからない。呼び名はともかく、この二つの出来事を簡単に重ね合わせることは出来ないと思う。そしてこのことは、フィクションというものを考える時に、重要かつ根本的なもののように思われるのだが、この二つを混同している人がとても多いように思われる。
わたしはふと気づくと、ある時とつぜん、「わたし」としてこの世界の内部にいた。わたしは、あなたと同類(人間)であるとともに、あなたとは別の存在(別人)であるようななにものかとして、「いま」という時間内での限定された点、「ここ」という空間内での限定された点に、ある程度自律的に(「そこ」にいる「あなた」とは別ものとして)存在している。「わたし」と「いま」と「ここ」とが切り離すことの出来ない渾然一体となった構造として、「わたし」が存在している。なぜそんなことが起きているのかは謎だが、とにかく気づいた時には既に「わたし」がいた。だが、このような「わたし」という出来事の構成は決して自明のものでも安定したものでもなく、おそらく普遍的なものでもない。
このような「わたし」という出来事は、例えば、言語、法、社会(共同性)、物語、思想信条、信仰、階級、ハビトゥス等という、いわば世界観と言い得る次元が成立するための前提となっている。この世界がどういう仕組みになっていて、その仕組みのどのような位置に自分がいて、そのなかで自分はどのような欲望を持ち、自分にはどのような行為が可能であるのか、ということを、「わたし」が、どのような見取り図や地図や差し引き加減として思い描いているのか、というのが世界観だろう。
「わたし」が成立しているということそのもの(わたしの構成)は、わたしの外側で起こっている出来事であり、それは「わたし」の前提としてあるのだが(「わたし」が「ある」のか「ない」のかは、「わたし以前」の問題である)、世界観とは、「わたし」と「世界」との関係がどんなものであるのかが、「わたしの内部」に地図として織り込まれたものであり、(わたしがそれを恣意的に動かすことは出来ないとしても)「わたし」の内部にあるものである。わたしの前提として、わたし以前(わたしの外)にあるものとしてのパースペクティブと、わたしという場において(わたしと世界との関係において)、わたしの内部で構成されるものとしての世界観は、その位相がそもそも異なる。「わたしの構成」は世界そのものを基底とする出来事であるが、「わたしのもつ世界観」は、「わたし」と「世界」との関係(接触面)に起因するもので、つまり既に成立している「わたし」という基底において生じている出来事である。
何が言いたいのかというと、「世界観」を変更し、書き換えることと、「わたしの構成」そのものを変化させ、書き換えることとは、同じではないということだ。世界観を動かし、書き換えることでさえ、既に容易なことではない(それはきっとわたしの無意識にまで深く入り込み食い込んでいる)のだが、「わたしの構成」そのものを動かし、書き換えることはさらに容易ではない(いや、もしかすると、別のやり方によればより容易であるかもしれないのだが…)。しかしそこにまで届かなくては、ぼくには面白くない。だが多くの人が、世界観を書き換えることで、わたしの構成までも書き換えたことになるとしてしまっているように感じられることがある。あるいは多くの人が、「わたしの構成」を書き換えることなんてどうやったってできないだろうとい諦めのなかにいるように思う。それがぼくにはすごく不満だ。
●ただ、このような認識だと、まるで、芸術やフィクションは世界観にのみ関わりをもち、その条件である「わたしの構成」へ届くのは科学の領域(脳科学認知科学、あるいは医学、精神病理学…)のみであるかのようにも思えてしまう。わたしの構成が、わたし以前にある(物理的、客観的な)世界の出来事であるのなら、それは科学にのみ到達可能な領域ということになる(科学的、化学的アプローチのみが「わたしの構成」を変化させ得る、と)。しかしそれも違うように思う。科学を、世界を物理的な出来事の因果関係や相互作用として記述するものとするならば、少なくとも現時点ではそれでは「わたし」を構成できない。ニューロンの発火はクオリアを説明・構成しない。要するに「科学」と呼ばれているものであっても今のところは、「物理的過程の記述+物語・文学」という混濁物としてしか「わたしの構成」を記述できていないのではないか。その時それはやはり「世界観」となってしまうのではないか。とはいえ、その世界観-物語はかなりすごいことにはなっていると思うのだけど。
●ここで、「構造的カップリング」というオートポイエーシス論の概念を思い出す。以前、「形から逃げ出す生命、ガタリの夢、自身の死を悼むシステム」(西川アサキ)について書いた日記から引用する。
≪並行する別のシステムが、システム内部のデジタルな選択肢にフィルタリング、または図式化されて取り込まれ、それがシステムの内側からは気づかれないままで常駐して機能し、その別システムの作動がシステム内の摂動として表現される、と。それはつまり、二つの異なるシステムが、互いに意識しないまま、ある「質料性」のようなもの(環境)を一部共有していて、それを媒介として「摂動」を伝え合うという形で相互作用しているのだが、その関係はシステムの内側からは決して知ることが出来ない、というような関係である、ということでいいのだろうか。
例えば、神経系システムは、ニューロンの発火を生産し、それが別のニューロンの発火へとつながってゆく。心的システムはあるクオリアを生産し、それが別のクオリアへと繋がってゆく。二つは別のシステムであり、ニューロンの発火はクオリアを生産しないし、クオリアニューロンの発火を生産しない。しかし、何らかのよく分からないやりかたで二つのシステムは接合されている。≫
ここで書いたことを少し修正して書き直してみる。一方にニューロンの発火を生み出すオートポイエーシス的な神経系のシステムがあり、もう一方に意味を生み出す精神分析的なシニフィアンのシステムがあり、その別々に作動する二つのシステムが、例えば「ヒト」という質料性を共通の環境として使用(利用)しているとする。この時、神経細胞のネットワークとしてのオートポイエーシス的なシステムは世界そのものの作動原理であり、一方、シニフィアンのネットワークである精神分析的システムが意味=世界観を発動させるシステムであると考えられる。そしてその二つのシステムを貫く「摂動」が両者をはしりぬける媒体としてのヒトの身体を、「わたしの構成」の原基となるものと考えることができるのではないか。
●だとすると、前に書いたことは書きかえられる必要が出てくる。まず第一に、世界観には二種類あり、「わたし」が構成された後で、「わたし」と「世界」との関係によって「わたし」の内部で発生する世界観だけでなく、「わたし」以前に既にある、シニフィアンのネットワークそれ自体としての世界観が先在的あること。そしてその、「わたし」以前の世界観は「わたしの構成」を発生させる条件の一つでもあること。つまり第二に、「わたしの構成」はたんに世界そのものを基底とした出来事というだけではなく、世界そのものの出来事(オートポイエーシス的出来事)と、「わたし」以前に既にあった世界観(シニフィアン的出来事)との重なりによって可能になるということ。つまり、「わたしの世界観」を生む基底となる「わたしの構成」のなかに既に、「わたし以前の世界観」の作用が含まれているということ。「わたしの構成」の基底面は、世界そのものの原理+わたし以前の(死者たちを含む)無数の人々の世界観という形になっている、と。
●ここで「わたしの構成」とは、いま、ここという時空構造と共にあらわれるものだから、たんに自我といったものではなく、「わたしの身体」としての「構成されたわたし」のことだ。勿論この身体は、物理的な身体(とぴったり重なるもの)のことではないが。
●わたしの構成、あるいは、わたしという現象が、神経系的、オートポイエーシスシステムと、シニフィアン的、精神分析システムとの構造的カップリングによってその基底が形作られているとすると、「(わたしにおいて成立している)世界観」を動かし書き換えることが、「わたしの構成」の書き換えに対してまったく無力というわけではないという可能性が出てくる。それは、世界観もまた「わたしの身体」の一部であるから、という意味だけではない。二つのシステムの(非意味的な)共振ということが考えられるからだ。
オートポイエーシスシステムと精神分析的システムが「摂動」によって繋がっている(決して顕在化-意識化されることのない相互作用が起こっている)とするのならば、神経系システムへの刺激がシニフィアンシステムへと作用し、シニフィアンシステムへの刺激が神経系システムに作用するということもあり得るということにならないだろろうか(勿論それは、非意味的で非機能的な作用だが、ここに、意味と非意味、機能と非機能との中間にある「リズム」というものが深く関係するように思われる)。決して顕在化されることのない、神経システムとシニフィアンシステムとの沈黙の交差的相互作用があり、それによって、いつの間にか「わたしの構成」(わたしの習慣、わたしの技術が駆動する基底材としての「わたしの身体」の組成)が変化してしまう、と。
このような、「わたしの身体」をめぐる沈黙の交差的相互作用(つまり両面からの働きかけ)は、ぼくがイメージする「芸術というプラクティス」と重なり合う。それは端的に、(外科的手術やボディビルドとは違うやり方で)別の身体になる(あるいはそもそもの「わたし」というものの意味をまったく変えてしまう)ということだ。この時、「わたしの身体」とは、物理的身体でもシニフィアン的身体でもなく、その間にある(間をはしりぬける)交差する(沈黙の)摂動としての身体ということになる。
それが、たんなる物語や世界観の書き換えというレベルではないというのは、別の身体になると「言うこと(例えば「生成変化」というような言説に共感したり感染したりすること)」と、実際に「別の身体になってしまう」こと(例えば別の習慣を身に付けること)とはまったく異なる出来事だということだ。逆に「別の身体になる」ことは、「そう言う」ことよりずっと普通で地味で日常的なことなのだとも思うけど。例えば「禁煙する」ということはそのような意味で「別の身体になる」ということで(それはおそらく、たんに習慣が変わるというだけでなく、習慣-図を構成している基底としての身体-地の組成がかわるということだ)、それ自体、芸術的なプラクティスではないだろうか。
そもそも、精神分析というものが、このようなプラクティスなのだろう。
たんに物語-世界観というレベルではなく、身体そのもの(それは物理的身体とシニフィアン的身体の間にある)を変質させるのがフィクション-芸術の機能ではないか、というお話。