2021-06-01

●『現実界に向かって』(ニコラ・フルリー)、第四章「現実界に向かって」を読んだ。いわゆる、フロイト-ラカン的な精神分析に対して、そこから「折り返してきた」かのような、晩年のラカンによる「サントームに至る逆方向の分析」について書かれる。ここで書かれたような「最晩年のラカン」まで含めて精神分析をみないと、その重要性をみることも、それへの批判もできないように思った。サントームの例としてしばしば『フィネガンズ・ウェイク』が挙げられることについて、この本ではじめて腑に落ちた感じがした。以下、引用、メモ。

●意味と現実界を結びつける「症状」、享楽のモードとしての身体、分析の果てにあらわれる「意味のない暗号(症状)=サントーム」

想像界は意味の領域に属するあらゆるものであり、象徴界は構造であり、現実界はこの二つの秩序から逃れるあらゆるものである。象徴システムのなかでは、現実界は理解することもつかむこともできない。現実界はみせかけのほうに逃れるのであり、だからこそ現実界に訴えることが必要なのである。(…)現実界に焦点を当てることによって、後期ラカンがそうしたように、享楽するものとしての身体を前面に押し出すことへ向かうことになる。これは思考の歴史のなかでは前代未聞の実体を導入することに等しい。その実体とは、哲学が思考しないものであり、精神分析に固有のもの、すなわち享楽である。》

《もし現実界が意味を完全に除外したとしても、それでもなおひとつの例外がある。それは症状である。「症状は、現実界において意味を持ちつづけるまさに唯一のものである」。現在に至るまでみせかけとともに〔分析〕作業を行ってきた分析家は、現実界を再び見出さなければならない。そして、現実界に到達することは、症状によって可能になるのである。このパースペクティブでは、症状は現実界における知の欠如を補填するものであると言えよう。身体に対するシニフィアンの影響力を理解させてくれるのは、非常に個別的な症状である。症状は、主体がもつもっとも現実的なものとなり、その固有の享楽するモードとなる。症状は、つねに偶然的で危険な出会いによって構成されうるものでしかない。「各々にとって、ひとつの出会いがある。その出会いは諸々の存在との出会いであったり、語との出会い、あるいは結びつきとの出会いであったりする。これが、享楽するモードを条件づけているのである」。》

《症状はすぐれて身体に関連する局面、つまり純粋な享楽の側面をもっている。「意味の生産者としての言語のメカニズムにはもはや重要性は与えられない。しかし、それ以来、無頭なもの、意味の外部のものとしての欲動が強調される」。(…)ラカン言語学的な構造主義は、いずれにせよ放棄されている。お互いに引き離されていた症状とファンタスムは、両者が結合したものへと移行する。〔症状とファンタスムの〕二元論から、〔症状=サントームの〕一元論への移行がなされるのである。症状は、シニフィカシオンの主な支えであったが、他方でファンタスムは満足に関係していたことが思い出される。しかし今となっては、シニフィカシオンそのもののなかで満足をつかむことが問題となっている。》

《「(…)享楽は身体を通過するものであり、それは形式としての身体、あるいはむしろ様式(…)としての身体、生のモードとしての身体なしには考えられない」。なぜ症状が「身体の出来事」として定義されるのかを理解することができるだろう。(…)というのも、症状はもはや解読されるべき隠喩ではないからである。「身体の出来事」としての症状は、享楽に関係している。そして、この享楽は意味の外部の現実界であり、それはシニフィアンの構造それ自体から逃れさるものなのである。》

《ふつう「症状」と呼ばれているものは無意識の形成物であり、徹頭徹尾シニフィアン的なものである。ミレールが私たちに言うところによれば、ラカンが「サントーム(…)」と書くようになるのは、無意識の形成物ではなく、現実界に向かって方向付けられた最後の時点における症状の残余物である。サントームは、もはやいかなる暗号化された意味作用も包み隠してはおらず、もはや無頭の享楽するモードにほかならない。それは分析の果てに、最後になって現れる症状である。それは治らないものであり、現実界を内包するものである。》

●分析の終わり、残余、サントーム

《症状は、たしかに象徴的な側面を含んでおり、ある部分では暗号化されたメッセージをもってはいる。しかし、他方では症状は、それ自体では意味をもたない享楽の側面をもっているのである。そこには一つの現実界が、意味の外側にある何ものかが存在する。これこそがラカンが話存在(…)と呼ぶことによって完成させたものである。》

シニフィアンに対してシニフィエや意味が与えられるためには、これまで見てきたように、私たちが属する共同体によって与えられる同意が必要なのだから、象徴秩序のなかではすべてはみせかけである。(…)すべての真理は虚構の構造をもっており、語の単純な使用法によって現実的な参照点に到達することは私たちには不可能である。こういった語は、つねにある意味から他の意味へと横滑りする。しかし、現実的無意識に向かう方向のなかでは、これとはまったく異なることが問題となる。意味を離脱したシニフィアン、何も意味しないにもかかわらず、私たちの享楽の領域に属する何かを、現実界の領域に属する何かを固定させてくれるような語を見出すことが問題となるのである。》

精神分析家の主な機能が解釈であることは変わらない。解釈は、疑いようもなく、分析家の欲望を構成するものである。象徴的な無意識、つまり言語のように構造化され、その固有の論理をもつ無意識は、分析主体の知らない知を運搬していることが重要であった。(…)この観点からは、無意識は外部の場において先取りされているシニフィアンから構成されるディスクール、つまり家族や社会の空気の語らい(ディスクール)である。このシニフィアンの貯蔵庫は、つねに大他者からやってくるものであるが、無意識が必然的に形作る場でもある。》

《このような構造にもとづく解釈では、意味が注入されている。そして、無限に解釈を続けることができるゆえに究極的な意味は存在しないことと同様に、決定的な真理がもつ何らかの価値を定めることはできない。可能な意味の複数性が存在するときには、真であるものは存在しないのである。》

《ポスト解釈的である時代には、症状の解読を目指して作業することはもはや重要ではない。それは、あらゆる解読は、また新たな暗号化にほかならず、そこには無限退行が生じるからである。むしろ、ファンタスムと、症状が含んでいる意味の外部にある還元不可能な享楽の要素を考慮にいれることが重要なのである。このようにして、症状からサントームへと移行することが可能になる。》

《分析主体は、自分の症状の謎に直面した際に、はからずも意味を醸成させる傾向をもっているが、そういった分析主体の傾向とは反対に進むのである。そうしなければ、最終的にはその解読作業を享楽することになるのが常であり、道を誤り、終わりなき分析に至ってしまう。むしろ、症状がもつ満足の側面を強調するのと同時に、ファンタスムと享楽についてファンタスムが担っている部分を強調しなければならない。ここにファンタスムと症状の結合、欲望と享楽の結合が見出される。ここには新しい結び目があり、それはまさにサントームと名付けられている。「主体のなかのサントームを目指す実践は、無意識のように解釈しない(…)」。》

●解釈の新しいモダリティ 『フィネガンズ・ウェイク

《(…)解釈の新しいモダリティを切り出すための一歩が踏み出されている。「そのモダリティは、快原則に奉仕するようには解釈しない」つまり、享楽のためのものなのである。その解釈は、主体の分割ではなく「困惑」へと〔主体を〕連れていく。切断の実践は、句読点を打つ実践と比べて、非意味論的(…)であり、語ることのなかで享楽されているものに直接的に触れるのである。分析家が支持する無意識の解釈〔=逆方向の解釈〕は、享楽を、享楽が身につけているシニフィアン連鎖から根本的に分離することを可能しなければならないのである。》

《このようにしてミレールは、ラカンがなぜジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を参照したのかを説明する。それは「〔『フィネガンズ・ウェイク』〕がパロールエクリチュールの関係、音と意味との関係を絶えず享楽するテクストであり、圧縮と曖昧さと同音異義語で織りなされたテクストであるにもかかわらず、古臭い無意識とは何の関係もないからである。シニフィアンシニフィエの結合は、このテクストではすべて無効なものとされている。だからこそ、このテクストは解釈を誘発することはないし、たとえ超人的な努力がなされたとしても翻訳を誘発することないからである。このテクストはそれ自体が解釈ではない。そしてこのテキストは、読解の主体を見事なまでに困惑へと至らしめるのである」。(…)それは、もはやいかなる可能な意味ももたないシニフィアンであり、まさに特異的な主体に固有の享楽するモードを凝縮しているシニフィアンである。私たちは意味と意味作用の周辺を捨て去ったのである。》