●『ニューロラカン』(久保田泰考)、二章まで読んだ。
《「われ考える」という「思考する実体」はひとつの存在ではあるが、「延長」とは区別される。つまり、その思考が、三次元空間で幅、高さ、奥行きを持つことはない。フロイトのいう無意識は、ある思考する実体であり、もちろん延長としての脳ではない(ラカンはそれを「無意識の主体」として捉えようとした)。今日私たちの目からは、当時のラカンの選択は(たとえばデカルトにとっての心身相関というアポリアが明示される点で)戦略的であったようにみえる。今日、ダマシオのような神経学者が、身体内部感覚の知覚とその情動を通じての表象化という観点から、デカルトの「身体」と、それとは別の実体でありながらその影響を受けざるをえない「思考する実体」を見出し、ついで真の意味での並行論である(唯一の実態の異なる属性としての精神と身体)、スピノザのいう「身体の観念」としての心(「われわれの心の対象は存在する身体であり、他の何ものでもない」)を再発見する。そこで、ある「存在」についての「観念」が明るみにだされようとするのを見るとき、ラカンの戦略は半世紀遅れで奇妙なアクチュアリティをおびてくる(では、「無意識の存在」についての「観念」を考えればどうだろうか……)。現在の脳科学、特に意識体験の神経学的基礎についての知見に対して、もしラカンが生きていたら何を語るだろうかという疑問は、すでに五〇年代のラカンによって応えられているようにさえ見える。》
上の引用部分についている註。
《おそらく彼は、アンリ・エーの器質力動論に対して行ったのと同じ批判を繰り返すのではないか(「心的因果性について」)〈ラカン、一九七二〉。階層構造を持つ中枢神経組織の解体と並行する、意識の解体によって精神疾患を説明する器質力動論は、その単純な平衡論ゆえに、時として最悪の形而上学に陥ってしまう。「私は王だ」と妄想する狂人と、「私は王だ」と考える王の意識状態を取り上げて、それと相関する脳の働きを分子レベルまで探求すれば(実際、相関は存在する)、妄想の何たるかが解明されると信じるとしたら、それはむしろ形而上学というべきだ。なぜなら、妄想か否かは、その個人が生きる社会的・歴史的関係の総体でしか決定されえない---その意味で「私は王だ」と考えることは「自由の極限」である(もちろん脳は「狂っている」としても)。同様に、赤いバラを見ている「私」のクオリアと、同じ赤いバラを見ている「あなた」のクオリアの微細な差異が(それこそクオリアの本質なはずだ)、意識状態に創刊した神経ネットワーク活動における差異に存すると信じるなら、それは赤いバラの「存在」について論じる哲学者より形而上学的だというべきではないか。》
ラカンの『精神分析の四基本概念』で最も印象深いところの一つは、フロイトの『夢判断』の有名な夢の解釈に対して、再解釈している部分で、つまり、父親は夢を見ているにもかかわらず「何故目覚めたのか」を問うている部分だ。これはとても重要な指摘だと思うのだけど、これを、「現実界」とか「表象欠如」とか、そういう言い方じゃない言い方で、どう言えるのかということが問題なのだと思う。あるいは、反復強迫(死の欲動)を、「象徴界」とか言わなくても、言えるようにするにはどうすればいいのか、とか。この本も、そういうことを考えようとしているのだろうか。
《無意識という概念を定位させるうえで、フロイトにとって重要だったのは、ファンタジーのような夢の情景の背後に意味を読み解くことではなく(それはむしろヒステリー症状の解読に際してヒントになる)、むしろ睡眠と覚醒の狭間でつかの間出現する現象について着目することであった。》
《(…)目覚める直前に一瞬、覚醒時の意識的な思考とは別の、新たな形式の思考が主体に対してもたらされる可能性が開かれる。実際、『夢判断』の最終章は、経験・実証データに基づく議論を離れ、そうした誰も見たことのない形式の思考の可能性についての困難な思索に費やされる(…)。》