●やらなければならないことを、無理矢理に自分にさせようとしむけるには、部屋にいたのでは誘惑が多いので、寒い雨のなかでも、駅前の喫茶店へと向かうことにする。寒さのせいなのか、それとも、遅くまで寝ていて昼過ぎに起きて、しばらくぼんやりしていて、食事もしないままで出て来たから口のなかの状態が変なのか、コーヒーが、コーヒーとはまったく別の何かのような味がした。というか、コーヒーに塩が入っているような味。嫌な後味に背中を押されるように、やらなければならないことを、とにかく集中してだーっとやる。
●今日の分のノルマは一応済ませて、最近、読み返している『精神分析の四基本概念』のつづきを読む。舐めるように熟読しているのだが、面白くて仕方がない。ラカンの言う象徴界は、いわゆる「大きな物語」とか「理念」とかとはまったく関係がない。それは一方で、レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」のようなもので、主体的な意識とは無関係にその人が従わされているある共同的な構造のことであり、しかしもう一方では、意味を欠いたシニフィアンとシニフィアンとがひたすらに連鎖してざわめいている無意識の構造のことで、あるシニフィアンから別のシニフィアンへと、ただ次々と果てもなく送り返されてゆく力や流れや動きそのもののことだ。だからそれは、主体的な意識とは無関係に、それ自身として「自動的に」稼働しているものだ(だからこそ主体は、象徴界の機能によって現実界にまで連れ出される)。それは、よせてはかえす波の動きのようなものであり、風によって、ある木から別の木へと、葉の揺れや葉擦れの音が移動してゆく動きのようなものでもあり、中上健次が「伊勢物語」から抽出したイメージ、舌をもったしゃれこうべがひたすら意味のない経文を喋り続けているというイージに近い。象徴界そのものの稼働とは、具体的な作品で言えば、レーモン・ルーセルの小説の感触に近いように思う。確かに、「父」の機能というのは、第三者の審級のようなものと近い働きがあるだろう。しかしそれは、象徴界そのものの働きというより、主体と象徴界とが重なるところに発生する機能であって、象徴界そのものは、主体とは無関係に、主体よりも「先に」ある。「真理」とはつまり「父-大他者(超越的な空項)」のことであり、父の審級が機能しないところでは成り立たないが、「現実界」は真理とはべつのもので、象徴界の自動的な進行とその裂け目とともにあらわれる。以下の引用はすべて『精神分析の四基本概念』から。
●《我われにとって重要なのは、考える主体、そこで自身を位置づける主体、そういう主体のいかなる形成よりも前に、何かが算え、何かが算えられ、その算えられたものの中に算えている人がすでに含まれている、そういう次元を我われはここで見ているということです。主体がそこで自らを認めるのは、つまり算えるものとして自らを認めるのは、その後にすぎません。小さな子供が「僕には三人の兄弟がいる。ポールとエルネストと僕だ」と言うのをおかしいと言う人の素朴な誤りを思い浮かべてみましょう。子供がこう言うのはまったく自然なことです。まず三人の兄弟、ポール、エルネストと自分が数えられます。私というもの、つまり数えている私が存在するのはその後です。》
《無意識はまず、いわば「生まれなかったもの」の領域に引っかかったままになっているなにものかとして我われに現れます。抑圧がこの領域になにものかを流し出す、ということは驚くべきことではありません。(略)このような次元は非現実でも、脱現実でもなく、実現化されていないものという領域においてこそ考えられるべきです。》
《無意識の機能における存在的なもの、それは割れ目であり、その割れ目を通してなものかがほんの一瞬日の目を見るのです。我われの領域におけるこのなにものかはごく短い出来事です。それは一瞬です。というのは、閉鎖の時である次の瞬間にはこの把握は消滅という様相を呈するからです。》
《ここで我われは、先回触れた割れ目の開閉機能によって区切られた構造を再び見出すことになります。論理的時間の始まりと終わりという二つの点、つまり見る瞬間---そこにおいてつねになにものかが直感から逃れ、失われます---すり抜ける瞬間---そこでは無意識の把握は完遂せず、つねにルアーを掴まされることになります。---、この二つの契機の間に、消滅しつつ出現が生じるのです。》
《不連続性、これが現象としての無意識がまず第一に現れて来る本質的な仕方です。この不連続性の中でなにものかが揺れとしてあらわれるのです。この不連続性こそがフロイトの発見の道の中の絶対的な出発点という性質を持っているのに、これをその後分析家たちがみなそうしたように、全体性という基盤の上に据えてしまってよいのでしょうか。「一」は不連続性に先行するので゜しょうか。私はそうは思いません。(略)基礎となるものはどこにあるのでしょうか。それは不在でしょうか。違います。むしろ断裂、割れ目、開口の線こそが不在を出現させるのです。つまり沈黙を基礎として叫びが現れるのではなく、叫びが沈黙を沈黙として現れさせるのです。》
《疑いこそがフロイトを動機づけています。まさにそれこそが、隠しておかなければならない何かがあることの印である、と彼は言います。つまり、疑いは抵抗の印なのです。
しかしながら、フロイトが疑いに与えた機能は曖昧なままです。というのは、この隠しておかなくてはならないものは、同時に姿を現さなくてはならないものでもありうるからです。なぜなら結局のところ、現れてくるものは、つまりすぐにばれてしまうようなかつらや髭をつけて「変装」してしか現れてこないからです。》
《デカルトは、「我、疑うことによりて、思うことを確信す」と言っているのです。私としては、彼と同様あまり慎重ではない言い方にとどめ、「思う、ゆえに我あり」と言うでしょう。こう言っておけば「我思う」についての議論を避けることができますから。ついでながら、私は「我思う」を避けることによって、この「我思う」はこれを「言う」ことによって初めて定式化されるという事実---その事実をデカルトは忘れていたのですが---、その事実から生じてくる議論を避けている、ということに注意してください。(略)
まったく同様の仕方で、フロイトは、彼が疑いを持つそのときに---というのは結局それは彼自身の夢ですし、最初に疑うのは彼だからですが---、何らかの無意識の思考がそこにあることを確信します。ということはつまり、無意識の思考は不在として現れてくるということです。彼は他者と関わるととすぐに「我思う」をこの不在の場所に呼び寄せます。主体が姿を消すことになるのは、この「我思う」を通してです。要するに、フロイトはこの思考が「我あり」なしに、ただそれだけでそこにあると確信するのです。》