●展覧会を観に行って、帰りに図録を買って、帰りの電車のなかでそれを開いてみると、今、観て来た絵画の印象と、図録に印刷されている図版の印象があまりに違うことに愕然とするのだが、しかし、展覧会を観てから時間が経ってくると、徐々に、作品の印象は繰り返し観直すことの出来る図版の印象の方に近付いていって、実物と図録との印象のズレが少しずつ小さくなっていって(忘れられていって)しまう。そして、何年か経って、再び同じ作品に再会する機会を得ると、自分が以前その作品を観た時の印象だと思っていたもの(実は徐々に図版の印象に近付いていってしまったもの)と、今、そこに見えているものとの、あまりの落差に、再び驚くことになる。絵を観ることって、本当に毎回その都度、こんなことの果てしのない繰り返しなのだった。絵を観る、ということの「憶えられなさ」、あるいは「再現(把捉)の出来なさ」、観る度にたちあがる違和感(記憶とのズレ)、おそらくここにこそ、「絵を観るという経験」の最も重要な部分があると思う。(図版は、実物を「観た」ときのことを、より明確に思い出すための「手がかり」でしかないと、意識的には考えているのだが、やはり、今、見えているものの強さというのはどうしてもあって、徐々にそっちに引っ張られてしまう。)
これは、他人の作品だけでなく、自分が、今、つくっている作品でも同じことで、制作の途中でいまひとつ上手くいかなくて、気分転換に散歩に出て、散歩しながらも、今つくっている作品のことを考えていて、あの部分に、ああいう感じで手を入れてみると、作品が動くんじゃないだろうかと思いつき、帰ったら早速それをやってみようと思って、帰ってアトリエで作品を観ると、そこにある絵の状態は散歩の時に頭に思い描いていたものとはやっぱり微妙にずれていて、それを「観ていない時」に考えていたことは、作品そのものにはジャストにはあてはまらなくて(無理矢理それをあてはめようとすると、作品はどんどん不正確なものになってゆく)、作品というのはあくまで、観ながらつくり、つくりながら考え、つくりながらつくりあげるしかないのだなあと、その都度何度も、改めて思い直すのだった。(とはいえ、散歩の途中で考えたことが全く無駄なのかといえば、そういうわけでもないのだ。それは直接的ではない別の通路を通って、作品をつくることのなかに混じり込んで来る。だから実は、それを観ていない時に考えていることの蓄積こそが重要だとも言える。ただそれを「すぐに」、「簡単に」、今、つくっている作品に当てはめてはいけないのだ。)
●吉祥寺のA-thingsで、西原巧織展。西原さんの仕事は、筆と絵具とキャンバスとで出来ることのあらゆる可能性を、自らの身体によって舐めるように味わい尽くそうとしているかのように見える。そのあまりの気の多さは場合によっては軽薄さにも安易さにも見えてしまいかねないところさえある(作品の資料を見ていると、「こんなことまでやってるの」と笑える)。しかしその作品から感じられるのは、軽薄さではなく、あくまで「楽しげ」な感じなのだ。それが決して、安易にも軽薄にも落ち込まないのは、センスとしか言いようのない、様々な事柄に対応する柔軟さと機敏さによるのであり、こだわりのなさによるのだとおもわれる。世界との接触面へ接する時の、的確なタッチの選択。筆と絵具とキャンバスがあれば、あらゆるものごとに触れられる、と。この、あらゆるものを呑み込んで、そのすべてを的確に処理できるかのような懐の大きな柔軟さは、ほとんどピカソを連想させる(作品そのものは、まったくピカソ的ではないが)。展示を観ている時の感じは、まるで、何日も一人で部屋にこもっていた後、陽射しの強い天気の良い日に外に出た時みたいに、あらゆる表情のものが次々と目に入ってくるので目眩がする、という感覚に似ている。
筆と絵具とキャンバスがあれば、あらゆるものごとに触れられるということ(こだわりがなさすぎるというほどの懐の大きさ)はつまり、逆に、あらゆるものに触れる時に、筆と絵具とキャンバス以外の原理に頼らない、という頑固さでもある。このことが、西原さんの作品を軽薄にみせないもう一つの原因であると思われる。あらゆるものごとに気が行くのだが、それに触れるのはあくまで筆と絵具とキャンバスによってであり、それ以外の言い訳や根拠や理屈に一切依存してないようにみえる。それは潔さであると同時に、危うさでもあると思うのだが(つまりそこでは、ある種の「深さ」は失われている)、しかしその危うさは、圧倒的な制作量による説得力と、世界へと触れる筆触の冴えが生む「楽しさ」によって覆い隠される(圧倒的に多幸的な幽霊好き系の画家だと思う)。絵画としての様々なアイデアや、身振り、身のこなし、動きの機敏さが、あらゆる作品のなかに溢れていて、観ていると、自分も絵が描きたくてむずむずしてくる。
●帰りに「百年」に寄って本を買った。クリステヴァが編集した『記号の横断』とかがあって、あまりに懐かしいのでおおっと思って思わず買ってしまいそうになるが(十代の記憶が本という物質として帰ってきたみたいだ、本が出たのは正確には二十歳の時だけど、「記号の横断」という字面やせりか書房的装丁がいかにもあの時代っぽい、この手の本をいつも買っていた藤沢や横浜の本屋の光景がフラッシュバックした)、なかをパラパラみてみると、ラカンに準拠しながら、主体を(あるいは記号を)サンボリックとセミオティックに分裂させてゆくみたいな理論はやっぱちょっと単純すぎるように思えて、だったらその分、ラカンをちゃんと読んだ方がいいやと思って、棚に返した。やっぱ、十代は帰ってはこないのだ、と。