●モーリス・ルイスについて、もうちょっと。
昨日、ルイスの作品について、「色彩は決して見切ること(イメージ化すること)が出来ない」というようなことを書いたけど、これは、あくまで作品を「観る」という側に立っての話で、つくる側に立つとまた別だ。ルイスは、いわゆる「モーリス・ルイスの作品」をつくるようになった41歳から、亡くなる47歳までのごく短い期間に、かなり多量の作品をつくっている。つまり、つくる側としては、けっこうシステマティックにサクサクとつくっていたのだと思われる。ルイスはおそらく、「観る」よりも早く動いて(つくって)いた。あるいは、「観る」ことと「つくる」ことの間には、本質的な違い(分離)がある。色彩を丁寧に「観て」いたら、そこで動きが止まってしまって「つくる」ことが出来なくなる。作品は、あくまで「つくる手順」(動くこと、操作する手順)によって制御されていて、「観ること」によって制御されているわけではなかった、と思われる。色彩を、じっくりと吟味し、味わっていたら、つくることに必要な早さや流れに乗り遅れてしまう。
料理を「つくること」と「味わうこと」との間に本質的な分離があるのと同様、絵も、それを「つくること」と「観ること」との間には分離がある。とはいえ、多くの場合、良い料理人は食いしん坊でもあるだろう。ただ、ルイスにおいて、その分離は他に例をみないくらいに大きいものであるように思われる。昨日も書いたけど、ルイスの作品は、様々な試行錯誤の末に、徐々にある完成へと近付いたというようなものではなく、「ある水準」に、いきなりポンと達してしまったというような作品なのだ。フランケンサーラーの作品からの啓示によって、いきなり「モーリス・ルイス」になってしまった時には既に41歳になっているのだから、それまでもルイスは、様々な作品をつくっていたはずだし、試行錯誤も重ねていたはずだ。しかし、「ある水準」に達してしまった時に、それ以前の作品の大半を廃棄してしまうことからも推測されるのだが、その「試行錯誤」と「ある水準」との間には、かなり大きな飛躍があり、つまり決定的な断絶があるのだろう。
つまりルイスは、ルイスの技術、ルイスの思考、ルイスの感性によって「モーリス・ルイスの絵」に到達したのではなく、いきなり向こうから、つまり「絵画の真理」のようなものの方から「掴まれて」しまったかのように、ルイスの形式へと飛躍した。だから、制作するルイスは、自らの意思や感覚によってつくるのではなく、絵画の真理の流れに従って、ただそこから外れないようにということにだけ気をつけて作品をつくっていたのだと思われる。だから、自分の工夫や考えや感覚によって、作品に何かを付け加えたり、差し引いたり、変更したりすることは出来ない、というか、その余地はない。
ルイスの作品は、極めて正確で、きっぱりしていて、迷いがないように見える(それは、その色彩が決して「掴めない」ものであるということと共存している)。それはつまり、「迷う」ことが出来るようなスペースがもともと存在しないということなのだ。例えば、ボナールの色彩の魅力は、一言で言えばその「迷い」と「逡巡」のなかにこそある。ボナールの色彩には「法」がなく、一筆、一筆、じっくりと吟味し、ふらふらと迷いながら重ねられ、調整されていて、その吟味と迷いの時間こそが、ボナールの色彩の厚みとなっている。しかし、ルイスの色彩にあるのは、自らが掴んだというよりも、向こうからやってきて掴まれてしまったかのような「絵画の真実(絵画の法則)」であって、そこでは「迷う」ことさえ許されない(勿論、制作するのに「迷い」がないなどということはあり得ないのだが、その「迷い」は、何か未知のものを開くためのものというよりも、既に掴まれた正しい道の上にいるのか、という種類のものであっただろう)。その作品は、観者にきわめてフェノメナルな次元で多様なあらわれを生じさせるものなのだが、それをつくる側には、時間の外に「真理」として存在するかのようにある。
ぼくが、一時期モーリス・ルイスに強く魅了されていながらも、そこから徐々に遠ざかっていかなければならなかったのは、そのような「迷う余地もない」ある絶対的な正しさによるのだと思う。つまり、モーリス・ルイスに影響されている限り、モーリス・ルイスとほとんど同じ絵を描くしかないのだ。例えば、ピカソが、セザンヌの作品のある側面だけを取り出して、それを自分なりに発展させてキュービズムに至る、というような、影響というか、パクリというか、発展というか、そういうことをする余地は、ルイスの作品にはまったくなくて、それ自身として絶対的に正しい姿で存在している(何かを付け加えたり、変更したり工夫したりした途端、すべては台無しになってしまう)。そこには、観者として近付くことは出来ても、実作者としては近付きようがない(ぼくがずっと、ルイスよりもフランケンサーラーの方が面白いと思っていたのは、フランケンサーラーの作品ならば、実作者として近付きようがある、というか、きわめて刺激的だ、ということのなだと思う)。とはいえ、ルイスの作品が既に存在してしまうこと、それを観てしまったということは、実作者としてのぼくにも、決してなかったことにすることは出来ない経験として、刻み付けられてしまっている。