08/05/23

●昨日の日記を書いた後、岡崎論をもう一度読み返して、思い切って構成をがらっと変えることにした。書いたものを七割くらいは残しつつ、着地点だと思っていたところを出発点にして、議論の順番をがらっと変えてみたら、先に進めそうな感じになった。そこまでで頭がどんよりして限界だったので寝た。
●朝起きて、前の晩に構成を変えた原稿をあらためて読んで、何とかこのままいけそうだということを再度確認して、川村記念美術館へ出掛ける。
●佐倉周辺の水田は、前に14日に来た時より随分と苗が育っていて、水かさは引いていて、前は水面という感じだったのが、今は黄緑という感じで、普通に田んぼっぽくなっていた。
●ただ、色を観るというだけのことに、何故これだけ興奮するのか。全身の細胞が振動する感じだ。マティスとボナールは勿論だけど、ぼくにとってモーリス・ルイスがとても重要な画家であることを、改めて思い知った。ルイスの絵は、言ってみれば、ただ絵の具が綿布に染み込んでいるというだけの絵なのだが、粘度の高い絵の具がどろっと流れながら布に染み込むことで、どこにも位置を持たない(綿布でも絵の具でもないその隙間に)「色彩そのもの」が立ち上がる。予備校の頃に習っていた講師の人がルイスの絵について、「絵はきれいなだけじゃダメだけど、ここまできれいだったらそれだけで充分だよよね」と言っていたのを思い出す。
それにしても、ルイスの色感というのは、他にちょっと例がないような不思議なものだ。マティスの色感は、油絵の具の特性を生かしつつも、その根拠にやはり「自然」との繋がりをもつものだが、ルイスは色感は、なんというのか、「アクリル絵の具的」とでもいうのか、アクリル絵の具というものが存在しなければあり得ないような、絵の具の特性を十二分に引き出しつつも、絵の具そのものに依存しているような感じで、アクリル絵の具そのもの以外にはこの現実世界に根拠をもたない感じで、しかも同時にルイスでなければ実現出来ないようなものでもあり、なんとも不思議な感じなのだった。
●ニューマンの「アンナの光」はとても良い作品なのだが、それにしても、「アンナの光」の巨大なオレンジの塊よりも、初期マティスの「ラ・ムラド(コリウールの風景)」という小品の、ごく小さなオレンジの色面の方が、より強いものに感じられてしまうことも事実だ。
●絵画は「実物」をみなきゃ駄目だというのは理屈以前の事実で、それは情報の量と精度が圧倒的に違うということなのだが、しかし、長く実物を観る機会がない時期がつづいたり、実物でも、つまらない作品ばかり観ていたりすると、ついつい、その事実を忘れてしまいがちだ。
マティスでもっとも重要なのはおそらくキャンバスや紙の地の白への鋭敏な感覚で、どれだけの量の絵の具がのったとしても、地の白の鮮度がまったく落ちないというところだと思った。たとえ地の白が全て絵の具で隠れてしまったとしても、油絵の具の半透明の層はいくらかの光を地にまで届かせ、反射させるのだから。(これも、実物を観なければ決して理解できないことだ。)
●美術館でばったり友人に会って、ベンチに座って話していたら、「古谷さんですか」と、偽日記を読んでいるという人から声をかけられた。学生だと言うので大学生だと思って話していたら、17歳だというので驚いた。17歳の人に読まれているのなら、「偽日記」も捨てた物じゃないんじゃないかと思った。ぼく自身は今日41歳になった。きんどーさんの年齢を追い抜いてしまった。