西武拝島線に乗って東大和市で降りて、郷正助のオープンスタジオ(アトリエで作品を公開している)へ。パッと観た印象として、前に武蔵美の芸祭で観た作品に比べて「時間をはしょっている」のかなあと感じた。聞いてみると、油絵の具ではなく、アクリル絵の具での制作を試みているという。いろいろなやり方を試してみるのはいいと思うけど、アクリル絵の具を油絵の具の代替物として捉えると、最後の最後のところの「精度」で微妙なズレが生じてしまうのだと思う。アクリル絵の具を使うなら、油絵の具とはあくまで「別物」として、その素材をはじめて発見するかのように、その素材で改めて一からやりなおすように、それ使うべきなのではないか、と偉そうなことを言ってしまった。(前に上手くいったことを、別の素材でやり直そうとすると、意識はどうしても、そこに生じた、普段なら感知されるであろう微妙なズレを「見逃そうとして」しまう。)
しかしその偉そうな言葉は、そのまま自分に跳ね返ってくるわけで、じゃあ、お前は自分の作品に対して、いつもちゃんと、そこまで厳しい精度を要求しているのか、と。そのような意味で、郷正助の作品は、少なくとも絵を描いている者にとって、決して安全な高見から眺め、今回はよかったとか悪かったとか言って済ませられるようなものではなく、その作品に対する感想が、そのまま自分の制作についての問い直しへの要求となって返ってくるような何かを含んでいる。たんじゅんに、自分ももっと真面目に絵を描かなきゃなあと思わされるし、絵を描くことが真剣に取り組むに値することなのだということも(その都度、改めて)教えてくれる。
今回の作品から逆に、前に観た芸祭の作品が、決してアクリル絵の具では代替出来ない高い精度で油絵の具の特性を掴んだ上でつくられたものだ(いや、つくりつつ、その過程で掴まれたのだろう)ということが分かるし(それは、ボールの芯をバットの芯で捉える、というようなことで、油絵の具へのフェティシズムとはまったく違うことだ)、だとすれば、アクリル絵の具においてそれをすることも、この作家にはきっと可能なのだろうとも思う。
(補遺)ぼくは上の文章で、郷正助の油絵の具の作品に対して、アクリル絵の具の作品との間にある「精度」の違いを感じ、しかしその作品は同時に、自分は自分の作品についてそれだけの精度を常に問題にしているのかという問いを返してくるような質をつもものでもある、という言い方をしているのだが、より正確には、そこで問い返されているのは実は、そこで油絵の具の作品とアクリル絵の具の作品とに精度の違いを感知している、当のぼく自身の感覚の「精度」が、そもそも本当に信頼に足るものなのか、ということであろう。その感覚が、たんにぼくのその場での気まぐれや、その時のぼくの側に起因する何かしらの原因によって、「そう見えた」に過ぎない偶発的な判断でしかないのではないか、という疑惑を、誰よりも、自分自身に対して反証する術がない、ということだ。この時、精度の違いを感知している自分自身のセンサーの「精度」を、外側から保証してくれるものはなにもない。(言葉によって他人を言いくるめたり、作品をコミニュケーションのツールとして使おうとするのではなく)本気で作品と接しようとする時、そのような不安から逃れることはできない。逆に言えば、そのような不安のなかでしか、作品はたちあがらない。自分自身のもつセンサーの保証のなさのなかで、自分自身のセンサー以外に頼るものがないという形でしか感知できないものが、作品が生み出すイメージの質であり、ヴィジョンであるのだ。