国分寺スイッチポイントで、郷正助「あの星にいきたい」展。帰りに立川の世界堂で足りない絵の具を買って、オリオン書房ノルデ店で『ラカン精神分析の治療論』(赤坂和哉)と、『日本の大転換』(中沢新一)を買う。「早稲田文学」4はまだ置いてなかった。
スイッチポイントの展覧会は郷正助の最初の個展。郷くんの作品を最初に観たのは2009年のムサビの芸祭だからもう二年近く前になるけど、それ以来今まで、マティスとかセザンヌみたいな過去の巨匠を除いて、つまり現代作家(勿論、日本の作家に限らず)の絵で、その時の郷くんの作品よりも良い絵画をまだ観たことがない。「良い」というのは、客観的な判断というよりも、ぼく自身が強く刺激されたということと、「絵画」というものが強く肯定されたという感じのことだ。
現代絵画とか、モダニズムとかポストモダニズムとか、アート終了以降のアートとか、そんなことを問題にする必要は一切なくて、ただ郷くんの作品によって、シンプルに「絵画」が肯定される。絵画には、そのようにして自分自身を肯定する力がある、ということを教えられた。画布の上に、いくつかの絵の具の塊が塗布されているというだけで、人類において絵画という形式が生まれたことの必然性と、その形式の必要性が証明されているような。それは奇跡的なことだが、その奇跡が、大学の汚いアトリエの壁に無造作にぶら下がっているのだった。絵が好きな人たちが、「これ、いいよね」「ねっねっ、いいでしょ」とささやき合う以外に何が出来るのか、いや、でも絵を観るってそういうことでしょ、という感じ。
しかし郷くんは、そのような高度な達成(完成度)になど囚われることなく、それ以降、ちょっとはっちゃけ過ぎではないかと思うほど、移り気な感じで様々な作品に手を出している(すべての発表を観られているわけではないけど)。それは二十代前半の若いアーティストとして健全なことだし、何よりそのはっちゃけ方が、奇をてらったり、ウケを狙ったりする感じではまったくなくて、人を思わず微笑ませるというか、精神の自由な動きをあらわし、そしてその作品を観る人にも、自由な動きを促すようなものなのだった。時にそれはあまりに野放図で、作品として収束(成立)していないんじゃないかと感じられることもあるが、でも、そのことの不備を感じるより、「えっ、そんなことやってんの…(笑)」的な楽しさの方が常に勝っているという意味でも、稀有な才能の人なのだと思う(そして、どんなにはっちゃけていても、そこに常にセンスの良さが匂わされているというところが、何ともうらやましいと言うか…)。
今回の展示は、そのような野放図なはっちゃけと、作品として(展示として)収束させて見せるということを両立させるという、バランスをとることがとても難しいことが試みられているように思う。作品として収束させるといっても、はっちゃけを抑制するという方向(例えば同じ傾向の作品で統一する、とか)には全く向かってなくて、ある「はっちゃけ」と別の「はっちゃけ」をどのように共鳴させるのかという、あくまでもポジティブ(で困難)な方向でそれが目指されている。正直言えば、あるはっちゃけと別のはっちゃけとがぶつかってしまって、がちゃがちゃうるさい感じになっているところがないとは言えないと思う(展示の仕方にしても、個々の作品がもうちょっとすっきり見えるやり方があったのでは…、とも思ってしまう)。でも、そういうことよりも、「球が多少逸れてたとしもあくまで腕をふりきる」的な気持ちよさの方が強く出ている。そしておそらく、そのような気持ちのよさこそが、多少逸れたかもしれない球から、別の可能性を引き出してくるきっかけにもなっているのだろう。
「はっちゃけ」を決して抑制することなく、あるはっちゃけと別のはっちゃけとの関係の精度を、もう一段階研ぎ澄ますことも可能なのではないか、と思った。クレーのような自由さと、マティスのような完成度とを、郷正助なら両立させることが可能なのではないか。
http://www.switch-point.com/2011/1117go.html