メディウムとしての絵画と、ジャンルとしての絵画とは別のことなのではないか。例えば、グリーンバーグ的なメディウム・スペシフィックには、実はジャンル・スペシフィックとの混同があったのではないか。絵画の内的な自己発展、自己実現と、外側から(社会的に)与えられた絵画の属性への従属とが混同されてしまっていたのではないか。
絵画というメディウム、その具体的な技術性、形式性、その技術や形式によってこそ実現される内容、そしてその歴史、という側面と、社会的、経済的な形成物であり、習慣-慣習である、外側から分類され規定されるジャンルとしての「絵画」のあり様(例えば、どの程度の範囲までが「絵画」として社会的に認知され、ぶっちゃけ「絵画として美術市場で値がつくのか」的なこととかその政治とか歴史とか)とは、別のこととして考える必要があるのではないか。
勿論、実際の具体的な絵画作品を、その二つの側面にきれいに切り分けるということはできない。どのような作品にも、その二つの側面は混在しているだろう(そのような意味で「純粋な形式としての絵画」はありえない)。しかし、原理的には、同じように絵画と呼ばれるものにも異なる方向から捉えられた二つの顔があり、それは互いに別の出来事としてあるということは意識されるべきではないだろうか。
通常、美術史として記述されているものは、ジャンルとしての美術(絵画)の歴史となりがちであって、それは、実際に、絵を描いたり観たりする時に起こっている出来事とかその歴史性とかとはすれ違ってしまうという感じがぼくには根強くある(絵を観たり描いたりする時に起こっている出来事は、「絵画というジャンル」のなかにははじめから収まりようがない)。そもそも、後者の意味での「歴史」とは、(いわば把捉-記述不能な厚み、広がりとしての潜在的蓄積のようなもので)通史とか物語とか配置という形で記述できるものではない。
(いや、そのような言い方はよくない。もとより「歴史」は、それを記述することの不可能性を承知の上で、せめてそこに「一瞬触れる」ことを目指して、あるいは、すべてではないにしろ今まで見えていなかったある側面に光を当てることを目指して、あるいは、共有しうる何かを「たたき台」として「仮構する」ことを目指して、記述されるのだろうから、その努力や試みをはじめから否定するかのように言うのはまったく間違っている。しかし、いったん記述された「それ」がまるで「正統な家系図」であるかのように機能してしまうこと、そのようなものとして「勉強されてしまう」ことに対する、どうしようもない苛立ちと抵抗感がある、ということ。だからといって、正統とされる言説に抗する複数のオルタナティブがあればよいということとは違っていて、全然そんなことではなく……)
絵画を観る、あるいは描くということが、まったく非-歴史的、超-歴史的なできごとというわけではないだろう。そこにはおそらく何からの歴史性が刻まれている。しかしその歴史性は、実際に作品を観たり、描いたりする行為のなかで(導きとして、また、縛りとして)あらわれるもので、一瞬その一端に触れられたり、触れ損なったりする、という形でしか捉えられないものなのではないか。
(記述不能であるということは、たんにリテラルに「記述不能」なのであって、つまりたんに我々の持っている記述能力の問題であって、記述不能だからあいまいだとか、記述不能と言ったから否定神学的だなどということはない。例えば、ある技術のあり様を完全に記述できないとしても、それが「できる/できない」は簡単に判定し得る、とかいうようなこと。)
●だがしかし、そもそも「わたしは画家だ」という自己規定が、「社会的に外側から規定された絵画というジャンル」なしに可能なのだろうか。いや、可能である、とぼくは信じているけど。それは、描く、観るという行為のなかで、「画家としての自分がその都度新たなものとして到来する」という出来事によって、その限りにおいて。
それはある意味では社会性や歴史の否定という(風にとられても仕方がない)側面もあり、ぼく自身のどうしようもない「貧しさ(浅さ、薄っぺらさ)」であることも自覚しているのだが…。
●でも、こんなこといくら書いてもまったく面白くないな。なんか「メタレベル死ね」っていう気分をメタレベルとして書いてるだけみたいだ。あとこの二倍くらい書いたけど、以下は削除。