●一般に、アートでメディウムスペシフィックというと、グリーンバーグ的な、支持体を根拠とするメディウムスペシフィックということになっているけど、これはもっと拡張して考えることもできるのではないかと思った。例えば、歴史を根拠とする、文脈を根拠とするメディウムスペシフィックというのを考えることができる。
歴史的メディウムスペシフィックとは、絵画の根拠として「平面性とその限定性」をもってくるのではなく、絵画(美術)史をもってくるもの。支持体の性質には還元されない多様な実践が過去にあり、そのような「過去に絵画と呼ばれたものたち」の実践とその「実践についての評価」の歴史を、絵画というメディウムの実践や評価の根拠とするという考え方。これもまた、歴史を根拠として「絵画」というメディウムを定義しようとするメディウムスペシフィックと言えるのではないか。たとえば、グローバルアートヒストリーなどの潮流は、ここに属するのかもしれない。
文脈的メディウムスペシフィックとは、アートの根拠として、現代の「アート界の文脈」をもってきて、個々の作品を、アート界の文脈に対する介入として考えること。つまり「なぜこれがアートなの?」という問いに対し、「これはアートの世界の文脈に介入するものだから」と答えるような考え。「アート」という総体を一つのメディウムと考え、その根拠を「その業界の文脈」に置く。これもまた、絵画は絵画であるから絵画なのだ、と同様、アートはアートだからアートなのだという同語反復である。つまり、どんな支持体によって構成されていようとも、業界≒文脈こそがメディウムとなり根拠となる。現代のアートに対する多くの人のイメージは、ほぼこの感じなのではないか。
(それぞれ異なるこれらのメディウムスペシフィックに対するオルタナティブとして、コンベンション(慣習)としてのメディウムを考えるクラウスのポスト・メディウム論を挙げることができる。)
これらすべてを乱暴にひとまとめにして「メディウムスペシフィック」と呼ぶことができてしまう。何が言いたいかというと、現代のアートの状況はメディウムスペシフィックを全然越えてなくて、たんにメディウムの概念を拡張しているだけなのではないか、ということ。これらはそれぞれ「メディウム」の定義が異なるだけで、どれもメディウムそのものを自らの存在の「根拠」に置いている(メディウムに頼っている)ことにかわりはない。「映画」というものの根拠を、フィルムに置くのか、映画館という上映形態に置くのか、視聴形態に関わらず映像によって物語を語る形式に置くのか、それぞれ異なっても、映画を語るのに「映画」を根拠とする姿勢は同じといえる、というのと同様に。
おそらく、このような状況に対するとても強力な批判として、アートの「現実主義」とでも言える流れがある。アートは「作品」ではもはやなく、現実の生であり、現実の政治であり、現実の社会運動であり、現実への介入(現実に対する主張)であり、たまたまその一部のドキュメンテーションやデモンストレーションが美術館なりギャラリーに展示されるのだ、というような。歴史を参照するとしても、「美術史」を参照するのではなく、たんに「歴史」を参照するのだ、と。アートは現実に直接かかわるもので、作品ではなくて現実を直接「指し示す」ものだ、と。確かに、そう考えればメディウムスペシフィック(メディウムへの依存)を超えられはする。だから否定はしない(場合によっては応援さえしたい)としても、ぼくにとってはこの方向は息苦しい。
現実と無関係ではないとしても、そこから一歩引いたところで何かをするのでなければ(あるいは、一歩引くことの出来る「場」をつくるのでなければ)、芸術がなぜ必要なのかわからなくなる。メディウムスペシフィック(メディウム依存)でも現実主義でも、そのどちらでもないところに立ち上がる「虚構的な何か(出来事・場)」一般について、それをとりあえずフィクションと呼んで、それがどうしたら可能なのかを考えたい。そうしないと、自分が生きる(息をする)ことのできる場所がなくなってしまうから。
(マニアはメディウムに住み着く。あるいは、文化はメディウムのなかで育つ。文化的コミュニティはメディウムのまわりに育まれる。このような側面を否定する必要はないと思う。ぼく自身、自分が近代絵画マニアであること、たとえば、モランディは「絵画として」すばらしいと思う、ということを否定する気はない。メディウムに根拠を置く本質主義ではなく、メディウムに現れる「趣味」の傾向性や、それを共有するコミュニティ、あるいはメディウムに特有な技術への愛着などは、肯定してよいと思われる。それを否定すると文化が成立しない。「趣味」や「慣習」を軽くみると、人が行為しそこで育つための地としての「文化」は崩壊してしまうだろう。ただ、「趣味」や「慣習」だけでは、作品をつくる時に必要な、多様な力の流れを統合する原理としては弱いと言える。)
ウォルトンの「ごっこ遊び」、ウィニコットの「遊ぶこと(移行現象)」、そしてデューリングの「プロトタイプ」。これらがとても重要に思われるのは、メディウム本質主義(あるいは歴史主義)に依らないで、あるいはその逆に振れた「現実主義」にも陥らずに、作品(フィクション)を統合する原理を考えようとするヒントになると思われるから。