●アーサー・ダントーが書いた「アートワールド」(『分析美学基本論文集』所収)を読んだ。成る程。これはぼくが知っている中では、アートの文脈主義を肯定する根拠としてもっとも説得力がある考えだと感じられた。ある作品(作家)によってアートワールドに持ち込まれ、芸術相関的なものと認められるようになった(今までのアートワールドにはなかった)新たな「要素H」は、それによって、過去のあらゆる作品の集合体からなるアートワールドの「様式マトリクス」に「H」と「非H」という二つの要素を追加する。それによって、マトリクス全体を二倍に拡張し、そこに含まれる過去のすべての作品を波及的に豊かにするのだ、と。
●仮に今、アートワールドの様式マトリクスを構成する要素が「表現主義的」と「再現的」の二種類しかないとすれば、そのマトリクスは、表現主義的、非表現主義的、再現的、非再現的という二対(四つ)の組み合わせとなる。

表現
再現

つまり、四種類の様式(1.表現的で再現的、2.表現的で非再現的、3.非表現的で再現的、4.非表現的で非再現的)しか生み出せないことになる。しかし、そこに新たな要素、例えば「自己言及的」が加わることで、

表現
再現
自己言及

となり、二倍の八種類の様式が可能になる(可能な様式は、要素が四つになると二の四乗に、五つになると二の五乗に増える)。それは、それ以前までは++(表現的で再現的)というカテゴリとして評価されていた古い作品に対し、それが+++(表現的で再現的で自己言及的)なのか、または++−(表現的で再現的で非自己言及的)なのか、という形で、新たな、より詳細で豊かな作品の見方を再検討することができるようになる、ということ。新たな要素の参入は、マトリクスの書き換えによって過去の作品まで含めて意味を豊かにする、と。
●アートの文脈とは、表現を有意味化する基底であるこの様式マトリクスのことだということになる(フレームの拡張ではなくマトリクスの拡張であるということころは納得ができる)。これは、文脈=メディウムの本質論ではなく、語用論とでもいえるもので、個々の作品は、アートワールドという文脈に属する(芸術相関的なものとなる)ことによって有意味となるのだが、作品は文脈に依存するのでもなく、自律するのでもなく、作品と文脈とが相互作用することで、文脈がその都度差異化されて新たなものとして生成し直される、と。
とはいえ、このことは基本的にあらゆる「システム(あるいは言語ゲーム)」に当てはまってしまうとも言える。たとえば、Aさんという人物がいて、そのAさんの人生上に今までにはなかった新たな要素を含む経験aが加わることで、たんに経験がプラスされた(10あった経験が10+1になった)のではなく、Aさんの過去の経験のすべてに関する見方や感じ方が変わるような地殻変動が生じた、ということはふつうにあり得る。個々の経験はそれ自体として有意味であるというよりは、Aさんの人生の基底面にあって経験を有意味化する「経験マトリクス」という経験の上位概念が拡張・変質されることによって、各々の経験の意味が豊かになる。
しかしこのことは基本的に、Aさんにとってしか意味がない(Aさんの人生の文脈のみを変えるのであって、Bさんとは関係ない)とも言える。この時、個別の経験、作品の上位概念として「Aさんの人生」と「アートワールド」は等価なものだと言える。つまりアートワールドの様式マトリクスはアートワールドでのみ有意味となる。
だから、このような考え方だと、「この作品がアートである根拠は何なのか?」という、アートと個別の作品に関する問いには(上位概念と下位概念として)答えられるけど、「アートというものがなぜ特別に価値があるものとされているのか?」「他の何かではなく、なぜアートが重要なのか?」という問いには答えられない。アート(アートの様式マトリクス)はあくまで、他の様々なシステムや言語ゲームの文脈(マトリクス)たちと等価でありつづける。このような考え方を進展させ、拡張させてゆくと、ルーマンの社会システム論のようなものになってゆくと思われる。
この場合、様式マトリクスはいったい「どこ」にあるのかということも問題になる。アートワールドの根拠となる「様式マトリクス」がそれ自体としてオートポイエティックに存在する、といっていいのか。それとも、様式マトリクスはアートに詳しい人々それぞれの頭のなかに、その経験の集積として、多少の偏差を含みつつも、大筋では共有されている(そのようなコミュニティがある)、という形で存在するのか。
常識的には、コミュニティを根拠にするしかなくなるだろう。様式マトリクスの全体(全て)を知る賢者のような「この人」は存在しないはずだから、様式マトリクスはコミュニティ全体として成り立ち、コミュニティ全体によって支えられることになる。ただ、コミュニティを根拠としてしまうと、アートに価値があるのは、そのコミュニティが主に社会的な強者や成功者によって構成されているから、ということになってしまうのではないか。あるいは、アートは既に制度として社会のなかで「貴重なもの」と認められてあるから、貴重なものとして扱われるのだ、と。文化いうのは要するにサロンなのだ、というのは事実であるとしても。
(ただ、コミュニティ中心主義は、ぼくにとってはとても「辛い」。)
おそらく、アートワールドの維持にはコミュニティが必要であり、アートワールドはコミュニティに依存するのだが、逆向きの作用として、アートワールド(様式マトリクス)の存在こそがコミュティを生成する力となっているとも言える。生成する力をもつということは、コミュニティを作り替える力をもつということでもある。すくなくとも「権利」として「可能性」としてならば、「そう言うことはできる」とは言える。
そのためには、オートポイエティックなシステムとしてのアートワールド(様式マトリクス)を考える必要がある。ルーマン的に言えば、アートワールドという自律したコミュニケーション(オートポイエーシス)システムが、アートのコミュニティに参加する人々を環境として成立していて、その主体であるシステムの作動が、結果として、環境であるコミュニティや人々の関係を組み替えることになる、と。
(ルーマンの社会システム論では、コミュニケーションそれ自体が主体で---コミュケーションがコミュニケーションを自己制作する---人々はコミュニケーションシステムの自己制作が成立するために必要な「環境」であることになっている。)
でも、これではまだ、「なぜ他の何かではなくアートなのか?」という問いには答えられていない。上記のことがらは、アートワールドに限らずあらゆるオートポイエティックな社会システムに当てはまってしまうから。
(ぼくが思うには、「アートワールド」は、様々に分化する等価なシステムたちのうちの一つなのではなく、ルーマン的に言えば「全体社会」のようなもの---様々に分化したシステム間の関係を扱うもの---としてあるのではないかと思うのだが。ただ、そう考えるとアートワールド=様式マトリクスというアイデアは維持できなくなるように思われる。全体社会は、中枢のようなものでもあり、貨幣のようなものでもある。要するにそれが「フィクション」なのではないか、というのはあまりにご都合主義的な飛躍であり過ぎだが。この括弧内に書いたことは、皆いい加減な当てずっぽうだ。)