●「漫勉」で古屋兎丸が、鉛筆の芯を紙やすりで削って粉状にして、それを水で溶いて薄墨みたいにして筆で描いているところがあって、ああ、このやり方懐かしい、この人も美大生(というより、美大受験生)だった人なのだなあと思った。「漫勉」を観ているとしばしば受験生時代を思い出す。
ぼくも受験生の時によく、木炭を紙やすりで粉にして水で溶いて使った。木炭デッサンでは、木炭を画面に何度ものせては抑えのせては抑えということを繰り返して徐々に全体のトーンをつくってゆかなくてはならず、ぼくはこれがけっこう苦手なのだけど、墨状にすると筆で画面に一気にのせられるので、画面全体のトーンをすばやく直観的に捉えられて、この技法には随分と助けられた。
(この頃のぼくは直観しかなくて、デッサンでも油絵でも、描き出してから三十分の時の状態が最も良くて、その後だんだんダメになってゆく、とよく言われた。要するに、直観的に空間を捉えるのは得意だけど、腰を据えて細部を描き込んでゆくのが苦手だった。苦手というか、薄皮を重ねるように画面を層として構築してゆくということを理解できてなかった。)
この技法は自分で考えたわけではなく誰かから教えてもらった。あるいは、どこかでそういうことをやっている人を見た。美大受験のための予備校(主に油絵科だと思うのだけど)では、誰があみ出したのか分からない、描画上の超絶技巧、あるいは怪しい珍技巧がいろいろと伝承されていた。予備校というのはひとつの場であり、例えばデッサンする時でも、モチーフを大勢の人が囲んで描くので、他人が「どう描いているのか」が自然に目に入ってくるから、「ああいう手もあるのか」ということになる。
(みんなが見ているなかで描くので、オレだけの「秘密の技」は成立せず、良い技はバクられる。)
でも漫画は、一人で描いているだろうし、他人が描いているところを見る機会もあまりなさそうだから(そのような意味では、アシスタントという存在が、技術の伝播や交流を媒介するアクターとして重要なのかもしれない)、「漫勉」は、漫画家こそが一番面白がって観ているのではないか。
今の美術の世界は、素朴に絵が好きな人が一生懸命良い絵を描いても、あまり評価はされない。そういう感じじゃないものになっている。「漫勉」は、漫画家の「絵を描く」という作業だけにフォーカスしていて、その他の部分は切り捨てているからそう見えてしまうということかもしれないけど、今でも「絵画」というものが生き残っているのは、マンガやイラスト、あるいは絵本という領域の方なのではないかと思った。
(つまり、油絵科の受験テクニックはかなり漫画で使える。)
(古屋兎丸も五十嵐大介も、自分が「絵が好きだ」という感じを、美術の世界ではまったく発揮することができないと思ったから漫画に転向したのではないか。「漫勉」で映っていた五十嵐大介の水彩による風景画とか、超かっこよかったし、色彩のセンスがすごいと思うので、ぼくとしては漫画よりもこっちの方をもっと見せて欲しいと思わなくはないけど。)
●あと第一期の「漫勉」で、さいとう・たかをが下書きなしでいきなりゴルゴを描いていたけど、あれは別に驚くほどのことではないと思う。さいとう・たかをは、もう五十年近くもゴルゴを描き続けているのだから、ゴルゴの取り得るあらゆるポーズ、あらゆる表情を、あらゆる角度から、どう描けばいいのかというパターンのすべてを完全に手が憶えているのだろうと思う。だから、ページのこの辺りにこの大きさでというアタリをとるだけで描ける。例えば、伝統工芸の、凧とかダルマとかコケシとかの顔を描く職人は下書きなどしないし、寄席文字を書く職人も下書きなどせずに何でも書く。あり得るあらゆるパターンを手が憶えているから。
それと、五十嵐大介や古屋兎丸の絵は根本的に違う。おそらくこの二人なら、同じキャラを何万回描いても、その都度違う絵として描くと思う(というか、そもそも同じキャラを五十年も描かないと思う)。それはどちらが偉いとかいう話ではなく、その絵の背景にあるのが、伝統工芸的なものであるのか、西洋近代絵画的なものであるのかの違いだと思う。