●よく描くためにゆっくりと見るのか、ゆっくりと見るために描くのか。
視覚はどちらかというと瞬時にものを捉える感覚だから、ものをゆっくりと見るのは案外難しい。謎のように複雑な形態をもっているものでも、異様に粒だった細部をもったものでも、そうそう長時間は見ていられない。あまりに凝視するとゲシュタルト崩壊が起きるし、そこまでいかなくても、同じメロディが頭のなかで何回もリピートするみたいに、目が輪郭をぐるぐる追っているだけになったりする(見る、というより、眼球の運動がある形にとらわれてしまう、みたいになる)。
ゆっくり見る、じっくり見るというのは凝視するというのとはニュアンスがかなり違う。昨日書いたみたいな、「球際の粘り」のある視線によって、ある時間のなかでじっくり浮かび上がってくる視覚的に認識や感触を得ることと言えばいいのだろうか。電車や車の窓から見る風景は、わりあい「ゆっくり見る」という感じに近いけど、それは、適度なスピードで風景自体が動いていてくれるからだろう。視覚には、動いているものを捉えるという傾向があるから、適度なはやさで動いてくれているものは「ゆっくり見る」ことがしやすいけど、動いていないものを見ることはけっこう難しい。
例えば、一本の木をゆっくり見るのは難しい。では、そのためにはどうしたらよいのか。視覚は、視覚という感覚が独立してあるのではなく、身体の行為のなかに(行為の助けとなるために)あるのだから、何かしらの行為のなかで、その行為とともに見ればいいのだと思う。木の周りを回ったり、手で幹に触れたり、木にのぼったり、葉の匂いをかいだり、実を採ったり、あるいはその下で横になってみたり、弁当をひろげたり、酒を飲んだり…。あるいはもっと言えば、木を育てることによって、それを「ゆっくり見る」というのもあるかもしれない。
絵を描くというのも、「見る」ための行為の一つで、つまり、絵を描くために見るのではなく、「よく見る」ために描いてみる、ということを、絵を描く人なら普通にするだろう。描くという行為を通して見ることで、はじめて見えてくるものがある。描くことの「遅さ」が、見ることの「速さ」に作用して、そこにある「粘り」が強いられる。上手く描けないと思うより先に、上手く見られないということが自覚されるはずで、その感じが眼に粘りを与えると思う。でも、上手く見られないという感じは、苦痛とか敗北感とかではなく、「上手く見られない」という感覚そのものが既に(今までとはちょっと違った)新たな視覚的感覚(経験)であるのだし、またさらに、その感覚が新たな発見(感覚経験)を導きもする。上手く見られなさや、上手く描けなさを味わうことそれ自体が、絵を描くことの楽しさであり、その重要な意味なんじゃないかと思う。
あと、絵を描くことは、描く対象をゆっくり見るというだけでなく、描いているその絵そのものをも、ゆっくり見るということになる。例えば、ぼくはかなりじっくりと時間をかけて絵を観る方だと思うけど、それでも、セザンヌマティスの絵であったとしても、一枚の絵を三時間も四時間も、ある新鮮な感覚を保ったまま(惰性に流れることなく)ずっと見続けるというのは難しい(美術館とかでは、色んな絵の前を行ったり来たりすることで新鮮さを保とうとする)。でも、自分の絵は、それが完成するまでの間、何か月もずっとそれを見続けている。それも、ただ見ているだけでなく、自分が加えたある一筆について、それを評価、判断し、その次の一筆を考える、というわけだから、気楽に見ているのではなくて、判断を誤らないようにという緊張のなかで見ている。でも、絵は動かないから、動かないものをずっと(正確に、新鮮に)見続けるのはとても難しい(一筆加えるとまさに「絵が動く」のだが、それはもう後戻りできない動きだ)。だから、絵を描くことはまさに「ゆっくり見る」ことを学ぶことであり、そして、そのような「ゆっくり見る」視線に耐えられるだけの複雑さを画面の上に組織することなのだと思う。おそらく、自分の絵を一番長時間見ているのは自分で、その自分が、それをずっと新鮮に見続けられるだけの面白さが、最初の一筆目から完成までずっと画面の上で持続されていないと、途中で自分の作品を「見失って(見飽きて)」しまう。
だから、絵のもつ視覚的な複雑さは、いわゆる高解像度みたいなものとは異なる。それは「ゆっくり見る」ことに耐えられるための複雑さであり、それを見るためには、(美術史とかアートの文脈とかではなく)「ゆっくり見る」ことを学ぶ必要があると思う。
絵を描くことも、絵を見ることも、基本的にどちらも同じ「見ることの(「よく見る」ための)エクササイズ」であって、それを分けて考える必要はないんじゃないかという気がしてきた。よく描くためにはよく見る必要があるけど、でも、重要なのは「よく見る」ことであって、よく見るためによく描く必要があり、だからよく描こうと努力する、ということなんじゃないだろうか。
●デジカメで写真を撮ることもまた、よく見るためのエクササイズだと思うけど、そのベクトルは、絵を描くこととは全然違う方向を向いているんだなあとも思う。