●ゆっくり歩くのは難しい。それと同じくらい、ゆっくり書く(描く)のは難しい。
ゆっくりのまま長く歩くのは難しい。短い時間は意識すればゆっくり歩けても、いつの間にか、普段のスピードにもどってしまう。ゆっくり歩くためには、それにふさわしい筋力を鍛える必要がある。だが、ここでゆっくりというのは多分、速度のことじゃないくて、「球際の粘り」みたいなことだ。
習慣が作動しようとする、その紙一重の手前までそれとは別の動きの可能性を探ろうとしていること。ある動きが発動する、そこで発動しなければ間に合わなくなるという瞬間の、ギリギリの直前まで、出来得る限る多くの可能性を保留したまま持っておくこと。あるいは、一つのストローク(動き)が締めくくられる最後の最後の瞬間にまで、その動きが「別物」となり得る可能性を捨てないこと。
例えば、あるところまで手癖のなかにありつつ、そのストロークの最後の最後、筆と画面との離れ際の動きによって、手癖の意味を変えてしまうような粘り腰のストローク、そういう粘りが、おそらく「遅さ」として体感される(だからそれは、手癖=習慣を否定するのではなく、手癖と行為の間の関係を変える、あるいは、行為が発動するその都度、その関係を揺さぶる、その揺さぶりの自由度を上げる、というようなことだ、手癖=習慣そのものは、潜在的蓄積であって、そこにはある豊かさがある)。
実際にそれがすごく早くなされても、着地し切る間際までどうなるか分からないという緊張のなかにいることが、遅さとなる。
ゆっくりと歩くためのエクササイズ。よく書く(描く)ために必要なことは、それに尽きるんじゃないかと思う。