●パースの記号論において、「記号」とは、「誰かに対して別の何かを表す何か」のことだ。この、誰かが「解釈項」、別の何かが「対象」であり、記号過程は、解釈項と対象が記号によって媒介されるという三項関係となっている。解釈項は、解釈する心とも言い換えられ、「解釈する心が、記号を媒介として、対象に規定される」と考えられる。つまりそれは、解釈項(解釈する心)は、記号がつくりだす効果である、とも言い換えられるというひことだ。パースにとって「心」は記号の(正確には記号過程の)効果である。パースにおいてはあらゆる事柄は記号過程の内部にあり、われわれの心もまた記号過程の一部として成立している。
以下は、『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』(コーネリアス・ドヴァール)からの引用。
●あらゆるものが記号過程であるとすれば、解釈項でありえるあらゆるものが「心」でありえ、また、あらゆる記号が解釈項でありえることになる。
《(パースは)われわれは記号の中でしか思考できないこと、内省の存在を拒否すれば、思考の過程においてわれわれ自身も記号としてあらわれること、考えるための記号に〈加えられた〉記号としてではなく、文字通りわれわれは、思考している記号そのものであるということ、などを主張した。パースはこれを「人が使う言葉あるいは記号がその人自身なの〈である〉」と表現する。われわれは、意識をわれわれ自身と同一視する傾向のあることをパースは否定しない。しかし彼はこう付け加える。「この意識は、単なる感覚なのであり、人間-記号の〈素材の持つ質〉の一部分に過ぎない」。意識は思考の統一性を説明するためにも使われることはパースも認める。「しかしこの統一性は整合性あるいはその認識に他ならない」のであり、それは「記号である限り、いかなる記号に」関しても成り立つのである。》
《解釈者についてのこのような解釈を仮定すれば、以下のように言える。解釈項はそれ自身記号である、あるいは同じことであるが、記号の効果はつねにもうひとつの記号である。これは無制限の記号過程(semeiosis)の原理であり、初期パースにおいて中心的な役割を演じた。「記号はそれ自身もうひとつの記号に翻訳されない限り記号ではなく」これが無限に(ad infinitum)続く。》
●しかし、のちにパースは、すべての解釈項がもうひとつの記号である必要はなく、「究極的な解釈項」というものがあるということを見いだす。
《自分のストロークを開発中のオリンピック水泳選手を例にとろう。いかなる筋肉の緊張や水の抵抗も、ストロークを完璧にするための記号として使われる。しかし最後にその水泳選手が、もはやそれらの筋肉の緊張や自分の動きへの水の特定の抵抗を意識しなくなるまで、そのストロークを習慣として内化してしまえば、その記号過程はそれ自身もはや記号ではない。〈究極の解釈項〉に至って終了する。そのような究極の解釈項もまた記号の〈対象〉となることはできる。これは競争相手やコーチ、水着デザイナーがそのストロークを研究するときに起こる。》
●ここでいわれる「究極的な解釈項」としての「習慣」は、ほとんどハーマンのいうオブジェクト(実在的対象)と同じものと考えてもいいのではないだろうか。
ここで、水泳選手という解釈項は、完璧なストロークという対象をつかみ取るために、筋肉の緊張や水の抵抗という記号の束のなかで、対象に最適な記号を探っている。この思考(記号過程)は、満足のいくストロークが自然に(無意識のうちに)できるようになることで、自動化し、習慣化して、水泳選手(解釈項)による記号過程はもはや「記号」を必要としなくなる。これによって水泳選手は「究極的な解釈項」となる。
しかしこの<究極的な解釈項によって「内化」された記号過程全体>は、無意識(自動)化することで、競争相手やコーチからだけでなく、そのストロークを実践する選手自身からも「対象」となり、つまり脱去していることになる。最高に調子がよい時、自分がなぜそんなに調子がよいのか(その記号過程のすべて)を、それを実践している水泳選手自身も完璧には知ることができないのだから。
そのストローク(記号過程)が習慣として維持されている限り(それを実践する選手自身の志向性からも自律=脱去したところで)、「ストロークを実践する水泳選手(究極的な解釈項)」が同一性をもつオブジェクト(実在的対象)なり、持続的に存在すると言える。