●夢と現実がごっちゃになることはしばしばある。起きてからもしばらくは、夢で誰かとした約束を現実のものだと思っていたり、夢であった出来事を現実の出来事であると思っていたり(たとえば、長く会っていない古い友人と会った夢をみて、それを現実に会ったと思いこんでいるとか)、夢の中では知り合いということになっていた有名人と覚めてからも実際に知り合いであると思いこんでいたりする。もちろんそれは、起きてから「しばらくの間」だけで、この現実感(の混乱)は日常の行為をしているうちに消えていく。しかしここでも「しばらく」という時間がどれくらいなのかが実測できない。目覚めてからすぐの、ぼんやりしているほんの一、二分のことなのか、それとも、二、三十分も続いているのか。しばらくは続く現実感が消えていく、その境界(いつの間に消えたのか)がよくわからない。
●目覚めてからもしばらくは愕然としたままでいるような、非常に強い印象の夢であっても、その強い衝撃が嘘であったかのように、時間がたつと忘れてしまう。記憶にとどめようと、意識的に何度も反芻しない限り、夢は忘れる。そして、意識的な反芻の間に、大きく書き換えられている。しかしそうだとしても、あるときに、そういえばこんな夢をみたということを、そのリアルな感触まで含めて詳細に、唐突に思い出すこともある。しかしその夢を「いつ」みたのかはわからない。
●部屋の夢をよくみる。いや、よくみるのか、夢のなかの部屋の間取りだけをよく覚えているだけなのかわからない。引っ越しして、新しい部屋に住む。あるいは、誰かの部屋に遊びにいく、とか、旅行にいった先で宿泊した部屋とか、そのような、夢でみた(夢でみたとしか思えない、現実にそのような場所へいったとは思えない)部屋の間取りの記憶というのがいくつもある。それらのうちのいくつかは、夢の特性(忘れてしまう)を裏切るように、現実に過去に自分が住んだり、訪れたりした部屋の記憶と同じくらいのリアルさで覚えている。ときどき、夢のなかで自分が住んでいた部屋の空間と、実際に過去に住んだことのある部屋の空間とが混じってしまって、そのキメラ的空間が、実際に住んだことなどあるはずがないのに、そこに住んでいたとしか思えないようなリアルさで浮かんでくることがある。
●夢を数えるのはむつかしい。リアルに記憶にある夢の部屋は、その部屋の夢を何度も繰り返しみるから覚えているのか、それとも一度しかみていないのに、妙な経路を通じて長期記憶に紛れ込んでしまったのか、それもよくわからない。夢のなかで、ある場所に馴染みを感じ、「この場所に何度も来たことがある」「この夢は以前にもみた」と思ったとしても、その「馴染みの感覚」や「反復したという思い」そのものが(デ・ジャヴのような)夢によって(夢として)構成されたものであるかもしれない。