●昨日の深夜の清水高志さんのツイッタ―でのチェスタトンについての発言が、フィクションについて考える上で非常に重要だと思われるので、メモとして引用させていただく。
https://twitter.com/omnivalence/status/1003641328779972608
https://twitter.com/omnivalence/status/1003655987532742657
https://twitter.com/omnivalence/status/1003660610926624768
《『正統とは何か?』でチェスタトンは、徹底して因果律的な知性の過信を批判する。時系列的に過去の原因が後の結果に作用しているということを、あまりに現代人は過信しており、そのため対象というものを失っているのだと。鳥が飛んでいることと、鳥が卵を産むことは全く別のこととしか自分には》
《思われないとチェスタトンはいう。これは、起成因(機械論)的な説明で現実世界はほとんど説明できないことが多いのに、そこを錯覚してほとんどそれで理解できるかのように思っているということだ。それによって、現代人は「対象」を喪い、懐疑主義者は懐疑のための懐疑をし、意志の崇拝者は》
《意志の崇拝そのものを目的化し、そして狂ってゆく。》
《このとき、なぜ対象を喪失するかというと、機械論的な説明は過去を引っ張ってきて現在に当てはめようとするものでしかないからだ。正確には今と、対象がそこでは消えているのだ。チェスタトンは、こうした精神において喪われているのは想像力だという。それも、おとぎ話的な想像力である。》
《おとぎ話でリンゴが金色なのは、始めてリンゴが赤いのを見て驚いたことを思い出させるためなのだ、ともチェスタトンは言う。その驚きとともに対象はある。それを喪うと、近代の狂気に陥る。つまり、想像力はチェスタトンにとって再魔術化のための鍵なのだ。》
《想像力の産物もまた、それこそまさに「対象」である。そしてそれを遇する倫理というものがおとぎ話にはあって、王女様にタマネギを食べさせては行けませんとか、中をのぞいてはいけませんとか、一見して不合理な禁制である。因果律ではない、驚きの連続として世界を見ている子供はこれを守るが、》
《しかしなにかもっともらしい合理的な理由からそれを破ると、そこで成立していた想像力の産物=対象はたちまち消えてしまう。こういう、フィクションの産物をオブジェクトとしてどう考えるか、というのは現代の哲学の重要問題である。その点からもここでのチェスタトンは極めて示唆的だ。》
《あと、対象を驚きをもって見守ることと、因果律で説明できることは実はブツ切れなんだというのを重視することは、驚き以外の情念の問題系とも繋がるはずだ。ここで、実はアランが情念について考えていることが、ぴたっとはまるのではないか。》
《主客問題を他者問題として捉えるとき、他者は客体(対象)であるというのがもっとも単純な二項性であり、相関性である。しかしこの他者を真の他者として見ようと思ったら、この最初の二項性を包摂し、第三項的に眺めるのでなければならない。そしてこのとき自己もまた、一瞬の後には他者と》
《変わらない。第三項と、最初の二項とのあいだには断層があるが、この断層を維持することが、チェスタトン的には「驚く」ということであり、西田も「情意において見る」という。ガブリエルのsinnfeldも、sinnは「意味」であって「情」である。そこにおいて、想像力の産物ですらある、ということを》
《むしろチェスタトンとともに肯定しなければならない。晩年の小林秀雄本居宣長について考えていたこと---宣長があれだけ精緻な文献学者でありながら、なぜ『古事記』の神話を本気で扱おうとしたのかという謎、また「文学のまこと」とは何かという問いも、ここに関わっている。》
《「ものの情(ココロ)をわきまへしる」ことがもののあわれである、とすでに宣長は言っているのだ。》
《この「ココロ」は、「そのこころは?」と言う場合の「ココロ」、意味ってことです。》
《虚構論と想像力論ということだと、オスカー・ワイルドはもう一度読み直しておいたほうがいい。。》
《内部に見ることと、ブツブツにしていくこと。これは、此縁性の「これがなければ、あれもない」という話や、道元の「薪が灰になる、しかし薪にもさきありあとあり、灰にもさきありあとあり、薪には薪の法位あり、灰には灰の法位あり、前後際断せり」というのと同じ。》
《情的な意味というのは、確かにある。あるものが「どうしてそれができたか?」だけがそのものの意味じゃない。それを「どうしてできたか?」に還元してしまうのは、ものの意味を下方解体することだ。ものが全体のなかでどういう役割を持つのか、ということだけでも、ものの意味を尽くしている》
《とはいえない。それはものの意味の上方解体である。何にも、そんないわば社会的文脈にもつながらず、手も足も出なかったけれど自足しているものの意味合いというものがある。それを味わい、味識するということ。》
《モノの人格化と、人格のモノ化。》
●また、メイヤスーの『有限性の後に』をちょっと読み返しているので、そのための助けとして、清水さんの発言をメモしておく。
https://twitter.com/omnivalence/status/1002902818192179200
https://twitter.com/omnivalence/status/1003118868447940608
https://twitter.com/omnivalence/status/1003121873272467456
《メイヤスーに関して言うと、あれを「内から見た外」の話としか読めていない人が多すぎる。たしかにメイヤスーも「大いなる外部」というような言い方をすることもあるが、相関的状況そのものは結局否定できないことを認め、過去であれ死後であれ、即自的ではない状態でなんらかの相関性を捉える》
《ことを考えているのだ。彼にとって重要なのは、その非即自性と言う「断層」であり、むしろその意味では相関性を内に見ようともしているのだ。相関性を限界ある二元論と解し、「さらにその外部を」とだけ主張すると、二元論をこじらせるだけである。》
《確かにメイヤスーの議論というのはぱっと読むと難しいのだが、それは相関主義的不可知論者の議論と思弁的哲学者の議論の違いが分かりにくいからだ。相関主義的不可知論者は、自らの死のような状態を即自的に考えることはできないが、その状態があることを否定する理由はなくそれを》
《間接的に考えることはできるとする。それによって、死後の魂についての素朴実在論や素朴なその否定などを、絶対主義として否定する。彼においては、議論は絶対主義の否定というところにいくから、彼は不可知論なのである。》
《ところが思弁的実在論者は、そこで可能性として思考されうると言われた事態こそが、別様にあることとしての事実性の典型であり、それこそがむしろ絶対なのだという。そういう、「否定されない絶対主義」を彼は主張するわけだ。》
《これは、デカルトが『省察』で、丸い煙突かと思ったら近づいたら四角い煙突だった、というような場合に、丸い煙突という感覚的経験を事後的に懐疑し(訂正「感覚的経験を事後的に懐疑するのではなく」)、(この時点ではまだ「〜の煙突」という感覚は信じている)誇張懐疑によって感覚的経験そのものを懐疑したことと似ている。デカルトはこのとき、》
《懐疑を「〜の煙突」といった外的な状況に委ねず、いわばあらかじめ内化してしまったのだ。そしてそれが、コギトという否定し得ない絶対の知の足がかりとなるわけだ。》
《ハーマンもまた、フッサールを援用しつつ、ハイデガーの道具やモノにおける脱去ということを所与のものとして内化するという手続きを取っている。(『四方対象』、ちなみにメイヤスーについての先の言及は『有限性の後で』邦訳100頁あたり)これはなぜなのかというと、相関主義は主体と対象の関係だが、》
《内と外という二項対立がここには関わっており、対象性はこのとき容易に主体という内部からの「外部」という風に比定されがちであるからだ。しかし相関的状況そのものを、内部において見ることができれば、その状況そのものは「内部であって外部でもある」》
《あるいは、どちらか片側に一方的に還元されないものになる。(これが、ハーマンの主張する下方解体と上方解体の否定である)このとき、入れ子になった相関性同士のうちには、非即自的な断層ができる。そして、それらは特定の相関的プロセスにともに従属するのではなく、バラバラである。そして》
《その状態が「絶対的」な事実性だ、そうメイヤスーは言うわけなのだ。》