●『有限性の後で』(カンタン・メイヤスー)の第一章から第三章までの議論は、次のことを導く。即自的なものは存在し、思考可能であり、非理由律と無矛盾律に従う。メイヤスーによるこの証明が仮に正しいとするのならば、このことによって、何が言えるのか。
非理由律が効いているということは、相対主義(あらゆる可能性が完全に平等な権利で存在し得る)こそが真理であり、絶対的(必然的)なものは存在しないということだ。つまり、絶対主義は誤謬であり、故に差別主義も許されない。逆に言えば、絶対主義と差別主義以外の、あらゆる可能性が許される。「相対主義者は、多数の相対的なものと同様に、絶対主義も認めなければならない」とか「反差別主義者は、差別主義者をも差別してはならない」という理屈が通用しなくなる。
矛盾律とは、理由なくなんでもありえるこの世界でも、矛盾することがらは成立しないということだ。故に、数学によって即自は思考可能である。逆に言えば、数学的にありえないものは「存在できない」と言える。つまり「大きな物語(必然)」は決して存在し得ないが、存在に関する最も弱い「共通の規格(数学)」はあることになる。
強い相関主義(≒ポスト構造主義)では、絶対が存在しないとは言い切れなかったし(故に、絶対を「信仰する」余地が残される)、存在に関する共通の規格も、あるともないとも言えなかった(故に、独我論を否定し切れない)。これだけでも、かなり大きな一歩を踏み出したと言えるのではないか。
(『数学的な宇宙』を書いた理論物理学者のマックス・テグマークは---エヴェレットの多世界解釈をさらに拡張して---数学的に可能な宇宙はすべて実在すると主張している。メイヤスーの立場は多宇宙論ではなく、宇宙は一つで、しかし、数学的に可能な状態はすべて実現し得るというのだから、同じではないのだけど、けっこう近い気もする。)