●原理的に予測不可能であることは、世界が非決定論的であることを保証しない。「予測できない」ことと、「決定されていない」こととは別のことだから。予測は不可能だけど、決まっているかもしれない。だからカオス理論は世界が非決定論的であることを保証しない。
量子力学も、それ自体としては決定論的であり、ただ、古典物理学世界とのリンク(観測)においてのみ確率的になる。だから、仮にエヴェレットの多世界解釈が正しいとすれば、可能性のあるものはすべて実在するのだから(観測問題は存在せず)、この宇宙は決定論的なものとなる。
ビッグバンの時の量子ゆらぎの状態が、その後の宇宙の可能性のすべてを決定するのだとすれば、宇宙の一番最初にのみ「偶然」があると言えるかもしれない。
科学的に考える限り、「偶然」というものの存在を前提とすることはできない。偶然はないとは言い切れないが、あるという保証もどこにもない。
(相関主義によって科学的実在論を批判した上で、相関主義の徹底によって相関主義を批判するというややこしい理屈の積み上げをつうじて、メイヤスーはようやく、哲学的な「偶然」を確保する。偶然は、そう簡単には転がっていない。)
日常的なレベルでは勿論、偶然は有効だ。でもそれは主観的偶然であり、「わたし(たち)は決してすべてを知り得ない」ということで、この世界に本当に偶然があるかどうかは分からない。日常的な偶然は有限性と同じ意味だ。
(あらゆる「可能な状態」が実在するとしたら、「このわたし」がそのなかの「どの位置」にいるのか、ということこそが「偶然」と言えるのだろうか。しかし、「このわたし」はその「すべての位置」にいると考えることも出来る。ただ、ある位置にいる時には、他の位置にいる時のことを忘れてしまっている---リンクが切れている---だけかもしれない。そうであるとすれば、また「偶然」は消える。)