●しつこいけど『聲の形』についてもうちょっと。
この話は、恋愛的な雰囲気がかぶせられてはいるけど、重要な主題はあくまで「友達」の方にあると思う。それは、「石田と西宮は友達になれるのか」というだけでなく、同時に「石田と植野や島田や川井は(再び)友達になれるのか」というように、双方向に広がる。もし、西宮が石田を受け入れるのであれば、石田もまた、(石田を裏切り、いじめた)植野や島田や川井を受け入れられるはずだ、ということでもある。そしてそれは、石田が変われるのであれば、植野や島田や川井(の認識)も変わり得るということでもある。そして、彼らの態度は、二度目の関係のやり直しにおいて(あるいは、石田や西宮の行動を受けて)、十分ではないとしても変わり始めてはいる。だから、この話は、小学校のクラスの場を、再び、三度、あるいは何度でも(加害者/被害者という区分けをしたり、責任の追及をするのではなく「場-関係」として)やり直そうと努力する話で、決して「加害者だけが一方的に許される」ような話にはなっていない。
(そのような意味で、この物語は「虚構の仕事」だ。)
(この物語は常に双方向的に広がる。それをもって「被害者にも落ち度があるかのように描いている」とするのも間違いだと思う。)
石田は、いじめの加害者であると同時に被害者でもあり、つまり、いじめを行った罪の意識と、いじめられた(世界に裏切られた)トラウマの両方を抱えている。この二重の苦しみは、いじめられた西宮よりも大きいとさえ言えると、ぼくは思う。
苦しさが大きいから罪が許されると言っているわけではない。でもラストは、石田の二つの苦しみのうちの一方の対人的なトラウマが解消されただけで、罪が消失したという形にはなっていないと思う。それに、関係のやり直しはまだ途上にある。二つの苦しみのうちの一方くらい取り払ってやったっていいじゃないかと思う。
(ごく常識的に考えて、この物語をみて最初に強く非難されなければならないのは担任の教師だと思う。教師のあまりの配慮のなさが、あのような場をつくってしまったとさえ言える。石田が悪くないとは言えないとしても、担任がもっと配慮していれば、石田も西宮をいじめたりせずに済んだかもしれない。クラスの西宮排斥の空気はもっと弱いものに抑えられたかもしれない。さらに、教師の対応のせいで石田までいじめられるようになる。なのに、石田を加害者としてのみ扱うのは納得できない。小学校六年生の時に、みんなそんなに立派だったのか。石田を加害者として決めつけることの、石田に対する暴力性についてはどう考えるのか。)