2021-07-03

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第6回をアップしました。

三権分立脆弱性を修正する (Part V, 1/2):政府、世界、国民とチャネルの向き

https://spotlight.soy/detail?article_id=j6vw9veuz

Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part V, 1/2)

https://vection.medium.com/fixing-vulnerabilities-in-the-tripartite-separation-of-powers-part-v-1-2-2b1ae4f521a3

●ルゴーネスの「火の雨」と「塩の像」を読み返していた。ルゴーネス(1874年~1938年)は、ボルヘスが「アルゼンチン文学を一人で象徴させるとしたらルゴーネスであろう」と言っているような(「バベルの図書館18」)作家、詩人、評論家。「火の雨」も「塩の像」も、どちらも旧約聖書(創世記)に書かれる「ソドムの滅亡」をもとにしている。

神がソドムを滅亡させた理由は「創世記」ではあまり詳しく書かれないが、「エゼキエル記」に次のような記述がある。《娘、ソドムの過ちはこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安閑としていながら、苦しむ者や貧しい者を助けなかった。彼女たちは高ぶり、私の前で忌むべきことを行った。そこで私は、あなたが見たとおり、彼女たちを取り除いた。》「忌むべきこと」とは性的に淫らなことだろう。つまり、高慢、飽食、非情、淫蕩の罪で滅ぼされた。「火の雨」の舞台は(小説が書かれた頃の)現在だが、現在における、高慢、飽食、非情、淫蕩の姿が、コンパクトだがとても魅力的に描かれる。その一方で、街が破壊されつつある過程が生々しく描写され、強い恐怖や恐慌状態にみまわれながらも、しかし全体としてみれば割合とおだやかに混乱と滅亡と死を受け入れていく、一人の裕福な独身者の視点が描かれる。罪こそがもたらす喜びがあることと、だがその帰結として破滅が不可避であることの両極が裏表のように同居し、そして、破滅を(割合に、だが)冷静に受け入れる精神もまた、罪を生み出してしまうような文明の成熟によってもたらされたのだという感触が書き込まれていて、凝縮され熟成された頽廃を感じさせる、とてもすぐれた短編だと思う。

神がソドムを滅亡させるとき、例外として、(アブラハムの甥である)ロトとその妻と二人の娘だけは助ける。ソドムの街から逃げるときに「決して振り向いてはならない」と神は言うが、ロトの妻は振り向いてしまったので、その場で塩の柱になってしまった。「塩の像」の舞台は聖書の世界と地続きである。洞窟で禁欲的な生活を送る敬虔な信仰者のもとに悪魔が訪れ、彼をたぶらかそうとする。神に罰せられたロトの妻、あの塩の像は今もまだ存在している。それだけでなく、彼女はまだ生きている。その場所に固定されてしまったまま、今なお責め苦を受け続けているのだ。悪魔にそそのかされた信仰者は、塩の像に洗礼を施すことで、ロトの妻を生き返らせるという考え(これは「神の裁き」への裏切りとなる)に取りつかれる。これはつまり、1.塩の像は今も実際にある。2.塩の像となったロトの妻は今もまだ生きている。3.ロトの妻の目は「ソドムの滅亡」を実際に見ている。という順番で、徐々に聖書の世界に近づいていくことになる。おそらく敬虔な信仰者は、聖書の世界を実際に目の当たりにしている「目」を見ることによって、聖書とのより近い(より直接性の高い)繋がりを得たいと考えるのだろう。そして彼は塩の像に洗礼を行い、ロトの妻を復活させ、そのことで自滅する。この展開は予想通りではあるが、聖書の世界を実際に目の当たりにしている「目」を復活させることで聖書に触れようとするというヴィジョンは興味深く、後のボルヘスにも繋がっているような感覚だと思う。