●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第8回をアップしました。本文はここでひとまずは「結び」ですが、この後に「補遺」がつづきます。また、このテキストは、長いテキストのほんの序章で、この後、3レイヤーサイクルの話は、対称/非対称5レイヤーサイクルにまで発展していきます(が、それはまだずっと先)。
https://spotlight.soy/detail?article_id=tiv9a3zwd
Conclusion / Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part VI)
https://vection.medium.com/conclusion-612c1ab890ba
●西川さんの「分散化ソクラテス」、本題に入ってきた感じ。
https://spotlight.soy/detail?article_id=acquklm03
《ソクラテスは、他のソフィストと違って、問答法の相手から金銭を受け取らなかったという。彼は、「共同体内で他人を論破して出世する」という明確なゴールを持つディベート術を教えたわけではない。ソクラテス自身が自分の弁論術が出世に使えるわけがないと自覚的だった。なので対価を取らなかった。逆にソフィストたちは生活費を稼ぐため、ディベート術を家庭教師した。だから職を失いたくなくて、共同体のルールや神には逆らえない。ソクラテスとは違う。》
《それはいい。対価の要求は、ある意味で趣味の問題だ。しかし、ではソクラテスはどうやって生活していたのか?他の労働で生活費を稼ぐか、不労所得を得るしかない。》
《もし、前者なら、余技としてしか問答法はできない。後者なら、それは結局経済的自立とは両立していないし、見えないところで他者を搾取しているから、「自由と平等」という問答法の意図と矛盾する。》
The Unsustainability of the Method of Dialogue: Economic Independence
●東工大の「文学B」の講義の三回目(「描写」と「構造」)で、ボルヘスの「円環の廃墟」(牛島信明・訳)「バベルの図書館」(鼓直・訳)と対比的に取り上げるチェーホフの短篇は、「少年たち」(神西清・訳)「学生」「聖夜」(松下裕・訳)にしようと思った。「少年たち」は、12、3歳の、ちょうど脱子供化しはじめた頃、思春期の少年のちょっと痛い感じを描くという、ある意味テンプレ的な主題だけど、それがチェーホフによっていかに生き生きと表現されているかを分かりやすくみることができると思う。それに対して、「学生」と「聖夜」は、作家としてのチェーホフの「やりたいこと」の核心のようなものが、割とストレートに、しかも濃厚に出ているように思われる。それに、「少年たち」が12、3歳くらいの、ようやく子供である状態から抜け出すくらいの時期の少年の話で、「学生」が、これから自分の人生を切り開いていこうとする22歳の青年(が、みたもの)の話で、「聖夜」はもっと年齢のいった、既に死というものを親しく意識するような人たちの話だということで、ボルヘスの短篇の超俗的な感じとは異なる、時の流れとともに変化していく生身の存在としての人について書かれた小説、という感じが強調されるのではないか、と。
東工大 2021年度 文学B