2021-06-14

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第4回目をアップしました。

三権分立脆弱性を修正する(Part III, 2/2):レイヤー間の制御と矢印の向き

https://spotlight.soy/detail?article_id=mqok4m0mc

Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part III, 2/2)

https://vection.medium.com/fixing-vulnerabilities-in-the-tripartite-separation-of-powers-part-iii-2-2-b6c45ae420ff

西川アサキさんの「分散化ソクラテス」も、コンセプトが明確になってきたと思います。

https://spotlight.soy/bLb7kPck9DE9BZFy

https://asakin.medium.com/decentralized-socrates-part-4-1a02e102320c

保坂和志の小説的思考塾 vol.4。昨日はVECTIONのオンライン会議の日だったので、今日になってからアーカイブで観た。最初に話題にされたカフカの『審判』の文章が、改めて面白かった。岩波文庫の辻ヒカル訳。

《Kは叔父の姿を見ても、もうかなり前に叔父が来ることを想像して驚いたときほどには驚かなかった。この叔父が絶対にやって来るだろうとは、もう一か月も前からKの確信となっていたのだ。当時もすでに、叔父が少し前こごみになり、ぺちゃんこになったパナマ帽を左手にして、右手はもう遠くから自分に向かって差し伸ばし、あたりかまわぬ乱暴な急ぎ方で、じゃまになるものは何もかも突き倒しながら、机ごしに握手してくるそのありさまを、目のあたりに見る思いだった。》

いや、《Kは叔父の姿を見ても、もうかなり前に叔父が来ることを想像して驚いたときほどには驚かなかった》は、すごい文だ。叔父が来て驚いたのだが、《かなり前に叔父が来ることを想像して驚いたとき》に驚いたほどには、驚かなかった。これがすごいのは、言葉が状況を描写しているのではなく、言葉を使って「このように書かれる」ことによって、はじめて「このような状況」があり得ることが意識されるというところだろう。まず、叔父が来ることを「想像して驚く」ということがあり得るのか。そのような状態があり得ることを、このように書かれることではじめて意識できる。そしてさらに、「想像した時の驚き」と「実際に来たことによる驚き」が比較され、「想像した時の驚き」の方がより強いことが示される。想像した時の驚きによって、実際に来たときの驚きが準備されていた、とも言える。ここで間違えてはならないのは、「叔父が来たときの驚き」を想像したのではなく(これだと面白くなくなる)、「想像すること」が驚きをもたらしたというところだ。

また次の次の文の妙な具合は、《あたりかまわぬ乱暴な急ぎ方で、じゃまになるものは何もかも突き倒しながら》という言葉が、たんに、握手のために机越しに右手を差し出す仕草を形容しているというところにある。ただ右手を差し出すだけでなく、遠くから右手を差し出したまま迫ってくる様まで含まれた表現であるとはいえ、この「遠くから」の距離感がよく分からなくなる。遠くからといっても部屋のなかなのでそんなに遠くはないはずなのに、差し出された右手が、かなりの距離を「乱暴な急ぎ方」で踏破してくるように感じられる。叔父の「右手」が、乱暴に急ぎながらも、短い距離を「直線的に遠回り」して自分の手元にまでやってくるという感覚で、複数のスケール感の(矛盾を含んだ)重なりが感じられてクラクラする。

この文は、《当時もすでに(…)目のあたりに見る思いだった》という形になっていて、この状況が「想像された」ものなのか「目のあたり」にしたものなのかよく分からない。というか、今、まさに目のあたりにしている状況をすでに想像していた、と読むこともできる。想像されたものと目のあたりにしているものとがぴったりと重なり合って、1つの文によって表現されている。想像も目のあたりも区別がつかなくなってしまっている。あるいは、ひとつの状況が、想像と目のあたりとに分離してしまう。そして、そのような状況は、「このように書かれる」ことではじめて出現する。言葉によって状況が生み出される。こういうあり方がカフカっぽいリアルさだと改めて思った。

●引用された「審判」の3つ目の文であらわれるような、複数のスケール感が矛盾をはらんだまま重なっているという状態に、ぼくはなぜかとても惹かれる。スケール感のネッカーキューブともいうべき状態。たとえばフラクタル的な図像は、スケール感というものを失調させるのだが、失調というところまで行かず、スケールという感覚が残りながら、それが多重化することでスケールの絶対性が崩れる感覚。カフカと並べるのは図々しいが、この感じをぼくは自分が書く小説でもけっこう書いている。

《姉は、木曜の仕事帰りのバスの窓から外を眺めている。バスは橋にさしかかり、窓からはネオンを反射してきらきら揺れる水面が見えている。さざ波立つ水面は黒い紙の上に黄色や青や緑色の紙を細かくちぎって貼りつけたように平板で、姉にはその川面が、膝の上にあって両手を添えているハンドバッグよりも遠くにあることが上手く実感できない。

水道管が破裂して、その修繕工事で大通りが閉鎖されているためバスは普段とは異なる迂回路を通っていた。帽子屋のあるビルに近い停留所から回りくどくジグザグ曲がって自宅アパートに至る迂回経路を、姉は腹とバッグの間にある空間の内側にイメージしている。平板に見える川面も当然その内側に位置していたし、姉が住むアパートの部屋もその内側にあるはずだった。(「グリーンスリーブス・レッドシューズ」)》

で、このスケール感の多重化は、どうも幽体離脱的な感覚とつながっているように思われる。カフカや保坂さんの話から離れてしまうが、たとえば小鷹研理さんの「蛇事件」。

《昨日の田植えの写真。賄いの昼ご飯を食べた後、この辺りで豪快に昼寝してたところ、仰向けのお腹の上で何か尋常ならざるものがうねうねしているのを感知してハッとして飛び起きた。蛇だった》

《蛇事件)ぬるっとした感触ではっとして飛び起きたときに、僕の脳裏には、仰向けに寝転んでる自分を見下ろす視点で、素肌の腹の上を滑る蛇の姿がくっきりとした映像として残っていた。飛び起きた時には自分はそこにはいないし蛇も逃げているわけで、(アングルのみならず)それは明らかに矛盾した映像→》

《なのだが、この矛盾を自らに何度指摘しても、その像を見たという感触は確実でまるで揺るがない。こうした幽体離脱的な記憶像は、長時間かけて物語的に形成されていくという説明をよく聞くが、こういう体験をすると、ミニマルな自己とすぐ隣り合わせのところに常に「ある」という感触を強く覚える。》

《今回の体験は、以前、夢の中で自分が乗車してた飛行機が墜落した時に、突如、三人称視点モードに転じたときのことを思い出させる。ある種の心理的なショックが、自己を客体化する幽体離脱的な視点を引っ張り出してくる触媒となる。そう考えている。》

《#yumerec (夢録) 飛行機はレール上を滑走して飛び立とうするが失敗。二度目のトライで飛び立つ際に機体が右に傾き山に墜落、機体をひきずりながら斜面を滑り降りる。墜落の瞬間、先頭に座っていた私は、突如、自分の乗っている飛行機を左側から傍観し、乗客の怪我の様子を観察している。》

https://twitter.com/i/web/status/1402203951949246466

スケール感を持つのは、我々が固有の大きさをもった身体を持っているため、日常的に身体との比較で空間の大きさを測って生活しているからだ。しかしそれと同時に我々のなかには、潜在的に、身体を基準としない別のやり方で、別のスケール感で測られた空間が併存している。そして、なにか危機的な状況があらわれた時に主従が逆転する(幽体離脱)。しかし、危機的な状況にならなくても、普段から常に、もう1つある別のスケール感は意識されていて、身体基準のスケール感との二重描きによって空間を認識しているのではないか。つまり「わたし」は、通常は「わたしの身体」の位置に常にあるように思われているが、実は普段からそれほど「わたし」と「わたしの身体」の位置は一致してはいない。というか、「わたし」の位置は1つではない。「わたし」は、わたしの身体の内にだけあるのでも、外にだけあるのでもなく、常にブレた幅のなかにあるのではないか。