2021-06-15

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、最終回。すばらしかった。ただ、最後に三人の元夫たちがひたすら松たか子を持ち上げる一連の流れ(夢のような夢)は、もう少しさらっと描かれてもよかったのではないか(ぼくはあのような場面ではひたすら気恥ずかしいので)とは思ったが、これは「好み」の問題だ(みんながシンジに向かって「おめでとう」と拍手するテレビ版「エヴァ」のラストをちょっと思い出した)。松たか子が出会い損なった三人の女性たちと邂逅する場面がちゃんとあったのは良かった。

改めて思ったのは、オダギリジョーは失敗したんだなということ。あなたの夢をぼくが叶えてあげられるかもしれません、という感じになったところで「西園寺くん」になってしまっていたんだな、と。

また、強く感じたのが豊嶋花の絶望の深さだった。裕福な家庭に育ち、自分の好きな仕事で社会的にも経済的にも成功している母が身近にいるという環境でありながら、自律するよりも「持てる者」に依存して生きる方が良いと考えるようになるくらい、彼女の世代にとって「この社会」の未来が暗いものとして認識されているということだろう。大金持ちというわけではないにしろ、お金の心配をする必要がないくらいには裕福な人たちばかり出てくるこのドラマで、彼女はずっと「別の現実」を見ていたということだろう。

(豊嶋花による「母からの自立」は、実は「自立した女性」から距離をとる、ということだったのかもしれない。)

(西園寺くんに「落ちてしまえ」と言う時に、松たか子はなぜカメラ目線?)

松たか子は、母に対しては共感と同情のような感情をもっていたと思われるが、父に対しては不信感をもっていたように思われる。それでも岩松夫婦と頻繁に行き来するような関係にあるのは、やはり娘(孫)の存在によるところが大きいのだろう。当初は鬱陶しいと感じていた元夫たちとの関係を持続させたのも、三人の父たちが好きな娘の介入によるところが大きい。つまりこれまで豊嶋花は、主に媒介者という「機能」として存在していた。しかし最終回にしてはじめて、その心の揺れや迷いまで踏み込んで描かれた。

(最終回で、母、私、娘という三世代の共鳴が改めて描かれるのは、横に並ぶ並列世界だけでなく、縦に連なる、継承-展開による反復的並立性をも示したかったからではないかと思う。)

岩松了があまりにも救われないかなとも思ったが、娘に自転車の乗り方は教えられなかったが、網戸の直し方は教えられた、ということでまあいいのか(それにしても、「父親らしいことをしなかった」例として「自転車に乗れない」を出してくるのすごい、そして「自転車」で釣っておいて実は「網戸」が重要という落とし方もすごい)。岩松了の再婚夫婦が、このドラマで唯一成功している(持続可能な)異性愛カップルだ。でもそれは良くも悪くもということで、このことは岩松了が女性に身の回りの世話をしてもらわないと生きられない昭和のおじさんであるということを意味してもいる。

(「ああいう映画を観て楽しむ人たちっているんだねえ」と言うような人っているんだねえ、と思った。)

(岩松了には、松たか子と重なる部分もある。松たか子松田龍平に自分以外に好意をもつ相手がいることが受け入れられなくて離婚したが、岩松了もまた、妻に自分以外に好意を持つ相手がいることを感じ取って、家に帰りたくなくなる。これは、岩松了だけが悪いということではない。)

松たか子にとって風吹ジュンの存在は、別の世界線市川実日子であり、長生きしたかもしれない市川実日子の可能性の具現化である---そしてそれは、自分と市川実日子のような関係が、過去にもあり得て、ならば未来にもあり得るということを示すものでもある---が、それだけではない。この世界に自分が存在しなかった可能性の具現化だとも言える。

母と風吹ジュンは、母と父との結婚後---自分が生まれた後---に知り合ったのではなく、子供の頃に既に出会っていた。仮に、同性愛にかんする偏見がまったくない社会で、母が迷うことなく風吹ジュンとの生活を選んでいたならば、そもそも自分が誕生する(存在する)余地はまったくないことになる。母が自分の望みをまっとうしたならば、自分は存在しない。松たか子岩松了に「こういう人がお母さんと結婚したのが間違い」と言うと岩松は「結婚してなければあなたは生まれてません」と返す。この言葉は、風吹ジュンの存在によっていっそう重みを増す。つまり、「間違い(あるいは妥協)」がなかったとしたら自分は存在しない。自分は間違いの産物である。松たか子は、母が、自分や父を捨てて風吹ジュンと駆け落ちでもすればよかったと思うことは出来るが、父(男)となんか結婚しなければよかったとまで思うことは出来ない(その場合、自分は存在しないのだから、「そう思う」ことが出来ない、そう思う自分がいない)。

このドラマがここまで踏み込むとは思っていなかったのだが、自分が存在しなかった世界があり得たという事実を生々しく感じさせる存在に出会うことで松たか子は何を得るのだろうか。三人の元夫の存在や、あり得たかもしれない松田龍平との長く続く結婚生活は、確かに並行世界の存在を想起させる。しかし、その可能性として存在する世界にはすべて「わたし」がいる(「わたし」が取り得た選択である)。でも、当然だが「この世界にわたしがいない」可能性もあるのだ。自分自身の存在がそもそも偶発的なものでしかなく、いくつもあり得る可能性の1つでしかないし、はじめから「わたし」のいない世界も普通にあり得る。そこには「わたし」による選択の余地はない。このような可能世界の幅の広がりがもたらすものはおそらく、自分が生まれるより前の世界への関心であり、その過去の事情にかんする様々な可能性からたまたま自分が生まれるという流れに至ったという「偶発性(偶有的自己)」の肯定なのではないか。

風吹ジュンと会う前に松たか子岩松了を責めるが、会った後には受け入れているかのようだ。それは、自分は「このような父(このような父と母の関係)」からしか生まれてこないのだ、ということであり、仮にそれがあまり望ましくないものだったとしても、そのような自分以前の過去まで含めて「自分」なのだということではないか。正解も正解じゃないもなく、自分が存在する限りそうでしかあり得ない。他でもありえたかもしれないが、たまたまそうだった。そして、たまたまそうだったことによってのみ、自分が存在する。

(「マー」と「つき子」という呼び名は、昭和の少女小説みたいでいい感じ。)

(追記。たとえば、仮に自分と市川実日子がどちらも存在しなかった世界があったとしても、母と風吹ジュンは存在するかもしれないし、同様の関係を持ち得る他の女たちは存在するかもしれない、と考えることもできる。このように考えることで、「たとえ自分が存在しなかったとしても、それでも自分は存在するのだ」という、整合性としてはおかしいが、それなりに説得力があるように思われる文を得ることができるかもしれない。)