2021-05-28

●『大豆田とわ子と三人の元夫』第七話でのオダギリジョーのセリフを書き下している人がいて、それを読んで、ちょっと思うところがあった。

オダギリジョーが言っているのは要するに、時間は過ぎ去って消えてしまうものではなく、場所のように「別のところにある」のだから、たとえば死んでしまった市川実日子松たか子が手をつないでいた過去があるとすれば、その時間においては二人はずっと手をつないでいるのだ(そういう時間は「ある」のだ)、ということだろう。

ここでオダギリジョーが「言い落としている」のは、過去が場所のように存在するとしたら、未来もまた、同じように場所のように存在するはずだ、ということ。つまり、人の努力や気持ちに関係なく、すべてはあらかじめ決まっていることになる。オダギリジョーという人物は、まさにそのような決定論的な世界観を象徴するような存在ではないか(足ぶらぶらと、背中をかくことと、あくびとが同期する未来は、あらかじめ決まっているからこそ、計算によって導き出せる、ここで数学は、確定された未来を先取りするタイムマシーンのようなものだ)。

対して、三人の元夫は、あり得たかもしれない三つの異なる可能性(三つの異なる結婚生活)の並立を表していると言える。このドラマでは、三つの可能性が同時に存在している。つまり元夫たちはパラレルワールド的なものの表現形であり、オダギリジョー的な決定論と対立する。ただ、決定論パラレルワールドは排他的ではなく、『シュタインズゲート』の世界のように、決定論的な「世界線」が可能性の数だけあると考えれば両立する。

とはいえ、概念として対立しているとは言えるだろう。決定論的なオダギリジョーと、並行世界的な三人の元夫とが、松たか子のまわりに配置される。そして、松たか子オダギリジョーに惹かれていくとしたら、その理由は「死」にあるだろう。市川実日子が死ななかった世界線は、このドラマ内ではあり得ない(というか、彼女が死ななかったかもしれない可能性こそが、松たか子を苦しめている)。だから、三人の元夫(可能世界)ではなく、オダギリジョー(ブロック宇宙論)が必要となる。

(つまり、市川実日子の死をきっかけにして、ドラマの世界観が、並行世界的なものから決定論的なものへと移行した、と言えるのか?)