2021-06-13

●考えてみれば、(最終回前なので保留が必要だが)『大豆田とわ子と三人の元夫』は、主要な登場人物のすべての恋愛が上手くいかないという、徹底したアンチ恋愛ドラマなのだった。松たか子も、三人の元夫も、オダギリジョーも、立ち去った三人の女たちも、岡田義徳も、浜田信也も、谷中敦も、そして市川実日子を思う松田龍平も、ことごとく、恋愛の匂いのする関係に失敗している。さらに言えば、松たか子の両親も離婚している。上手くいっているカップルは一つもない(岩松了の再婚夫婦以外は)。ヘテロ恋愛至上主義者に対する呪詛でもあるかのようだ(だとすれば、豊嶋花と「西園寺くん」との関係は…)。

(恋愛関係は上手くいかないが、恋愛感情は渦巻いている、とは言える。)

一方、揺るぎない感じであるのが、松たか子市川実日子の関係であり、本来、敵対的関係にあるはずの三人の元夫たちの、仲良くはしゃぎ合っている関係である(三人の女性たちの一晩限りの連帯、もあった)。また(波乱の余地はあるものの)、松たか子と豊嶋花との母娘関係は概ね良好であるし、松たか子と母の関係も良好であったようだ。破綻寸前と思われた松たか子高橋メアリージュンとの間にも、考え方の食い違いを越えた根本的な信頼関係がみられる。松田龍平長岡亮介との間に成立する仕事上のパートナーを越えた信頼関係も見逃せない。恋愛の匂いを含まない同性同士の関係はだいたいうまくいく、といった感じだ。

いわば、反転されたヘテロ恋愛至上主義ドラマとも言えるが(そういう意味では異性愛基準が強めとは言えるが、無批判にそうであるのではなく「反転」という形で捻れている)、ここに「反転」という呪詛をもたらすのが市川実日子(の死)だとみることもできる。とはいえ、市川実日子の存在を「呪詛」というネガティブな概念と結びつけるのは良くないと思われるので、そうではなく、世界の反転を可能にした力の原点(反転世界を実現させた「動機」)と考えた方がよいかもしれない。

異性的恋愛の不可能性と、同性的非恋愛の可能性という、二つの関係性のあり様があって、その間に、危うくかかった橋のようにして成り立つのが、(下地としての恋愛感情をもちながら、それをオフにした)松たか子松田龍平の関係(非恋愛的異性関係)である、という図式を考えることができる。そして、二人の非恋愛的異性関係を支えているのが市川実日子であり、このような関係のあり様は、「男と女である限りどうしても恋愛になってしまう」ことを嫌っていた市川にとっても、希望であり得るはずだ(だからこれは「呪い」ではない、と言えるのか…)。

(松たか子松田龍平の「あり得たかもしれない長く続く結婚生活」は、市川実日子の存在がある限り「あり得ない」のだから、このドラマにとっては「この世界の外」の出来事だろう。つまり、それを排除することによって「このドラマの世界」が成り立っている。ただ、最終回が「この世界」をひっくり返すものであるという可能性はある。)

オダギリジョーは、このドラマの世界で唯一、異性的恋愛を実現させ得る可能性をもった人物だった(マジョリティという意味で、強く男性的だ)。一方に、異性的恋愛の磁場を強くまとってペアになろうとする力としてのオダギリジョーがいて、もう一方に、異性的恋愛の磁場からはじかれて自律=孤立しようとする力としての市川実日子がいて、松たか子はその中間にいる、と言える。松たか子は、そのどちらも理解できるが(あるいは、どちらも欲しているが)、しかし、どちらでもない。そのような意味でも、松たか子は異なる世界に「橋をかける」存在だと言えるのではないか。橋をかける存在は、常に狭間にいて、引き裂かれているとも言える。

そのような松たか子がたどり着いた「仮の解決」が、松田龍平との関係ということになるのだろう。

だが、この図式に含まれていない、もう一つの非恋愛的異性関係があって、それが父と娘の関係だろう。ドラマの初期段階において、「豊嶋花と三人の父たち」の関係---豊嶋花は父たちが好きだ---によって、松たか子の生活に三人の元夫たちがズカズカと入り込んできたのだった。そして、松たか子には、父、岩松了が存在する。素朴に予告を信じるのならば(予告はしばしばミスリードを誘うので、素朴には信じられないのだが)、最終回は父と娘の関係について描かれるようだ。

(母ではじまり、父で終わる、という感じになるのだろうか。あるいは、父を経由して母の問題となり、母ではじまり、母で終わるのかもしれない。)