2022/07/20

●『カルテット』、九話、十話をU-NEXTで。最後に吉岡里帆が幸せになれてよかった。

カルテット、ドーナツホールは、カラオケボックスで四つの楽器を持った人たちが偶然出会ったことからはじまった。だが、そう思っている(思っていた)のは松たか子だけで、実は、仕組まれた出会いだった。

(松たか子松田龍平松たか子満島ひかり松たか子高橋一生の出会いは、それぞれ後者によって仕組まれたものだが、この三つの仕組まれた出会いが、同じ場所で同時に起こった、というのは偶然だ。)

つまり、松たか子は、三人それぞれに騙されていた。また、松たか子は、夫(宮藤官九郎)との関係において、相手の心が既に離れていることを知らなかった。宮藤官九郎は、自分の感情が相手から離れたことを極力気づかれないように振る舞っていた。このことを、宮藤が松を騙していたと表現するのは酷だが、たとえば、「自分は唐揚げにレモンをかけられるのが嫌だ」という事実を隠し、レモンのかかった唐揚げをあたかも好物であるかのように食べ続けるというのは、相手に気を使ってのことだとしても、やはり相手を騙していたことになる。ましてや、気を使い続けることに苦しくなって、理由も告げずに(相手に謎を残したまま)突然失踪するというのは、裏切り以外の何物でもないだろう。

松たか子は、四人の人物から、その「関係の前提」にかんして嘘をつかれていたことになる(高橋からも嘘をつかれていたことを松は最後まで知らないが)。松田から、満島から、宮藤から、合計三回、松は「関係の前提に嘘があった」ことを知らされる。このドラマにおいて松たか子は、相手から繰り返し関係の前提を覆される存在としてあった。だが、最後になって、その松こそが、その存在の最も根底のところで嘘をついていた(戸籍を買い取って他人になりすましていた)ことが判明する。彼女は、四人に対してだけ嘘をついていたのではなく、いわば社会全体に対して嘘をついていたことになる。

だがこのドラマは、嘘の付き合いや騙し合いのどんでん返しゲームではない。たとえ「前提」からして嘘ではじまった関係であるとしても、「今、このようなものとしてある関係」が良いものであれば、それはそれでよいのではないか、という風に進んできた。根本に嘘があったとしても、その嘘が「良い現状」を結果として生んだのだから、それはそれでよい、と。松たか子は、松田や満島の嘘を知ってもカルテットに残り、夫の心が離れていたと知っても、夫に好意を持ち続ける。今あるこの関係(関係から生まれる感情)の真実は、関係の原初の真偽とは関係ない。

第一話について、7月13日のこの日記で下のように書いた。

《一話を観た限りで、このドラマのもっとも深い謎は松たか子によって担われていると思われるが、それ以外の三人(満島ひかり松田龍平高橋一生)もまた、背後に大きな不可視の部分を隠し持っている。つまり、すべての人物があからさまに多義的であり、正体や役割がまったく見えないままで、いわば「上っ面」だけで関係が進行している(満島ひかりのみ、ある程度背景がみえている)。今、ここで見えている状況は、このように見せようと意識的に操作された結果でしかないことが---四人の出会いが決してナチュラルなものではないことが---観客に対して明かされた状態で、ドラマが進んでいく。とはいえ、あくまで「背景」を隠したままの(背景を露呈させないように配慮された)ペルソナ的な関係が、しかしそれでも、それだけでは済まされない(背景や事情や謎とは別にある)「その人自身の地」のようなものをぺろっと引き出してしまう。松たか子が生じさせる軋轢が、そのようなものを引き出す引き金となる。意識的に隠されていることがあり、意図とは別にポロッと出てきてしまうものがある。》

背景にある「物語」や「事情」、社会的な関係性のなかでの「役割」の如何にかかわらず、人と人との直接的な関係のなかからペロっと引き出されてしまうもの。このドラマではそれが「こぼれてる」「こぼれた」と表現される。このドラマで真なるものとして信用されているのは、背景の事情を説明する物語ではなく、直観的に取得される「こぼれた」ものであり、そうである限り「背景にある事情」が嘘であっても問題にならない(松たか子の直感は、推論過程が間違っていたとしても当たってしまう)。嘘をつかれつづけた人物こそが、その根本から嘘つきであったというどんでん返しは、「こぼれた」ものこそが真であるという、このドラマの根本的な姿勢をひっくり返すのではなく、むしろ補強する。

背景の物語や社会的な役割よりも、「こぼれた」ものの質感を真とすることが可能であるような関係として、互いに欠点を通じて関係しあう、素人ではないがプロともいえない、三流の中途半端な弦楽四重奏が描かれている。彼らは、芸術家集団であるが、社会的に認知された「芸術界」のなかには位置付けられていない。社会的には(つまり、「背景の事情を説明する物語」を重視する場においては)、楽器のできる無名で無職の人たちでしかない。しかし「こぼれた」ものを真とするという意味で芸術家である。松田龍平が、彼らの集う場としての別荘の維持にこだわり、音楽を「趣味」と割り切ることに強く抵抗するのは、「プロ」と「趣味」とには切り分けられない、そのような区別とは関係のない「こぼれた」ものを扱う媒介としての音楽(演奏)こそを問題とする集団でありつづけようとするためだろう。プロとも素人ともいえず、仕事とも趣味ともいえないものとしてある(「本物」とか「偽物」とかいう価値観とは無関係にあり得る)演奏者集団だからこそ、それが可能である、と。

(彼らは、「背景の事情を説明する物語」を重要視しない。だから逆から言えば、自分たちの目標の達成のために「(社会的な)悪名」を利用することにも躊躇がない。)

このドラマがラスト近くに、このドラマ全体を強く拘束しつづけたと言ってもいい「唐揚げ問題」が、満島ひかりアナーキーな行動によって無化される瞬間が含まれていることは素晴らしいことだと思う。このドラマのラストにまで至る展開のなかで、「唐揚げ問題」は解体され、取るに足りないこととされるのだ。

(九話のラストで、松たか子がドーナツホールのバンに書かれたメンバーの名前---すずめ、つかさ、ゆたか---を、じっと見つめて去って行くと、その眼差しを尊重するかのように、十話になると、松田龍平高橋一生が互いに下の名前---ゆたかさん、つかさくん---で呼び合うようになっているのが可笑しかった。)