●『カルテット』、八話をU-NEXTで。それにしても、七話の、「ずっとサル探してましたよね、わたし」と言うときの吉岡里帆の顔(車の窓越しのカット)が、怖すぎて忘れられない。あと、ダムのほとりでのバック走行のカットもすごかった。
八話は、まさに「全員が片思い」という状況をもっとも生々しく浮かび上がらせた回だと思った。とはいえ、恋愛という位相でみるならば、誰一人として思いを遂げることが出来ないが、いったん、恋愛という位相を外して(あきらめて)みれば、彼らはとても幸福な状態にいる人たち、ということになる(彼らはなんて楽しそうなのだろう)。他の三人が恋愛の不幸と関係の幸福との宙づり状態にあるなか、離婚を決意して実行した---恋愛という位相をあきらめた---松たか子は、まさにその「幸福」の真っただ中にいる。
恋愛を最重要事項と考えれば誰一人として幸福ではないが、恋愛をあきらめさえすれば(二次的なものとみなせば)みんなだいたい幸福、というのは、「大豆田とわ子…」もそんな感じだった。
とはいえ、「恋愛をあきらめる」ことは決して簡単なことではない、ということが、主に満島ひかりを通じて表現されている。
満島ひかりがいかに献身的に努力したとしても、松たか子が松田龍平になびくことはないし(松はきわめて動物的な人として描かれており、性的に魅了されない相手に対して情にほだされることはないだろう)、自分自身の松田への「気持ち」をないことにもできない。そして、彼女が高橋一生の気持ちに気づくことも決してないのだった。この回の表の主役が満島ひかりなら、裏の主役は高橋一生であり、彼のなんとも微妙な位置取りによる(抑制的、かつ、ねじくれた)ふるまいの複雑な味わい深さが、この回を支えているとさえ言えると思う。
(満島の松田に対する気持ちの「ないことにできなさ」を、高橋の満島に対する気持ちの「ないことにできなさ」が---ステルス的に---支えている。高橋の気持ちの「ないことにできなさ」は誰によっても支えられないが、彼自身の性格の複雑な屈折のなかで処理される。)
「いい話」の回だと思ったら、最後にとんでもない展開をぶち込んできた。ここでもまた、「幸福」と「恋愛」の相容れなさによる緊張状態は、その問題自体の解決によってではなく、問題(結論)は宙づり状態のまま、より大きな出来事によって解消されるという構造になっている。
(九話もつづけて観ようと思ったが、気持ちを落ち着けるために、ここでいったん休むことにする。)
(『初恋の悪魔』を観ても思ったのだが、坂元脚本では「転ぶ・コケる」ことがけっこう多用されている。いかに「良く転ぶ」がということは、映画史的にみても重要なことで、脚本家が演出家の腕を試している感もある。)